部屋に着くまで二人は言葉を交わさなかった。タクシーを降り、エントランスを抜け、エレベーターに乗る。そのすべてが、まるで無音の映像のように進んでいく。何を考えているのか、自分でもよく分からない。ただ、気がつけば鍵を開け、ジョセフを室内へと招き入れていた。
ジョセフは相変わらず静かだった。濡れたコートのまま立ち尽くす男に、シーザーは一枚のタオルを投げる。
「それで拭いておけ」
雑にそう言って、自分はそのまま寝室へ向かい、部屋着に着替えた。必要以上に優しくするつもりはない。だが、放っておくには近すぎる距離。
リビングに戻ると、ジョセフはタオルを首にかけたままソファに腰を下ろし、ぼんやりと部屋を見回していた。壁に掛けた絵、無造作に置かれた本、生活の痕跡。初めて足を踏み入れる空間を、遠慮がちに眺めている。
「ほら。スーツ、着替えろ」
部屋にあった適当な服を掴み、ジョセフに投げる。
「全く。せっかくのスーツが台無しになるぞ」
ジョセフは少し驚いたような顔をしたが、すぐにそれを受け取り、黙って着替え始めた。その様子を横目に、シーザーはキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
「なんか食うか?」
問いかけると、背後で布擦れの音と一緒に、曖昧な返事が返ってきた。
「……ああ」
「全く、お前のせいで、せっかくのオードブルを食い損ねた」
そう言いながら冷蔵庫や戸棚の中をかき回す。チーズとハム。昨夜作り置きしたミネストローネが、コンロの上で静かに佇んでいる。少し時間を置いた分、味が馴染み、ちょうどいい顔をしていた。
「スープとパンくらいしかないが、いるか?」
振り返ると、ジョセフは何度も頷いていた。その瞳は、腹を空かせた犬のように分かりやすく光っている。
チーズとハムを適当に盛り、パンを切り、カウンターに並べる。飲みかけのワインをグラスに注ぐ。ジョセフは少しためらいがちにカウンターチェアに腰を下ろし、背中を丸めた。シーザーはスープに火をかけながら、キッチンでワインを口に含む。
「食えよ。腹減ってるんだろ?」
そう言うと、ジョセフは一瞬だけ迷ってから、
「……じゃあ、いただきます」
と小さく言って、オードブルに手を伸ばした。少し服が小さいのか袖口の布が張っている。黙々と食べ物を口に運ぶその姿は、おさがりの服を着る弟のようでもあり、どこか動物的だった。シーザーは思わず手を止めて見入ってしまう。
その間に、ミネストローネが小さく泡を立て始める。頃合いを見て火を止め、小皿に盛り、オリーブオイルとパセリを落としてから、ジョセフの前に置いた。ジョセフは皿を見るなり、すぐにスプーンを取ってゆっくりと口に運んだ。
「……ん! なんだこれ、すげぇ、うまい……!」
そう言ったかと思うと、勢いよく頬張り、あっという間に平らげてしまう。
「うまいっ!」
「まだあるけど、食うか?」
「え、いいの!? あるなら欲しい!」
子どもみたいな顔で器を差し出す男に、シーザーは思わず声を出して笑った。スープを継ぎ足し、再び差し出す。
「これ、すげぇ美味いよ。何これ?」
「ミネストローネ」
「マジかよ? 俺の知ってるミネストローネと違う! こんなの初めて食べた!」
無我夢中で食べ続けるジョセフを眺めながら、シーザーは自分の分を器によそう。ただの残り物だ。そう思いながらも、なぜか悪い気はしなかった。
雨はまだ、窓の向こうで静かに降り続いている。部屋の中には、湯気と、食器の音と、説明のつかない落ち着きだけが満ちていた。
なぜ、ジョセフを招き入れたのか。考えれば考えるほどわからなかった。ただ、この男は危険ではないと、なんとなく思ったのだ。今まで他人を家に招くことなどなかった。アルファの世界に置いて、家の中、生活、装い、食事からワイングラスまで、全てが「評価」の対象だった。自分の家の中にまで、そんな視線を持ち込みたくない。そんなことを思ってしまうことが、この世界に置ける “弱さ” なのかもしれない。そう思っていたが、不思議とこの男は、自分を評価しない。ただ目の前のものをじっと見つめて、素直に出された物を美味いと言い、渡された服を装い、開けっぱなしのワインを文句を言わず飲み干していくのだった。
「ジョセフ……」
目の前のその男の名を思わず呼ぶ。そうすると、その男はパッととこちらを見るなり、その大きな瞳をこちらにしっかりと向けてくる。
「あ、いや……なんでも、ないんだが……」
目を泳がせるが、結局ジョセフへと視線が戻る。相変わらず丸い目でこちらをじっと見つめている。
「……美味いか?」
「うん! シーザー、店出した方がいいよ! マジで美味い!」
ジョセフはスープを頬張りながら満足そうに目を細めた。シーザーは思わず、笑いながら言った。
「……実はミネストローネは、2日目が一番美味い」
ジョセフは目を見開いた。
「今日は?」
「1日目」
「じゃあ明日の方がもっと美味いのか!!?」
ジョセフは、ただでさえ大きな瞳をさらに大きく丸めながら、嬉しそうな笑顔を浮かべる。その単純さに、シーザーは思わず笑ってしまった。
あんなに憎いと思ったのに。いざ目の前にすると、こんなにもただの男でしかない。何か悪い夢でも見ていたかのように、ジョセフはただ普通にそこに存在していた。彼は不思議なくらい危険がなかった。道端に転がる空き缶のように、動物園で寝転んでいるバッファローのように、何かをこちらに求めるわけでもなければ、何かを与えるわけでもない。ただそこにいて、そこで生きているといったような様子で、ミネストローネを頬張っている。
食事を終える頃には、鍋の中身はすっかり空になっていた。皿の上にはパン屑と、溶けかけたチーズの名残だけが残っている。ジョセフは満足そうに息を吐き、背もたれに身を預けた。
「……食いすぎた」
そう言って腹に手を当てる。その仕草があまりにも無防備で、シーザーは思わず鼻で笑った。
「自業自得だ。残飯だって言っただろ」
「嘘だ。あれは残飯じゃない」
即座に返される。反論の余地のない口調だった。シーザーはグラスに残ったワインを飲み干し、シンクに置いた。食器を洗うか、後回しにするか、そんな些細な判断をするだけで、この夜がやけに長く続いていることを実感する。
時計を見る。もう深夜に差し掛かっていた。ジョセフはソファではなく、まだカウンターチェアに座ったまま、どこか居場所を定めきれない様子だった。
いつもなら、この時間に他人が家にいることはない。ましてや、かつて関係を断ったはずの男が、キッチンの明かりの下で腹をさすっているなど、あり得ない光景だ。それでも、シーザーは何かを咎めようとは思えなかった。
「……寒くないか?」
ふと、そんな言葉が口をついて出る。ジョセフは一瞬きょとんとした顔をしてから、首を振った。
「大丈夫。この家、俺んちより暖かい」
「そうか」
それきり、会話は途切れた。
帰る、という言葉は、どちらの口からも出てこなかった。言わなかったのか、思いつかなかったのか、自分でも判然としない。ただ、今この空間にある沈黙は、居心地が悪いものではなかった。何かを決めなくてもいい時間。名前を与えなくても、壊れない距離。
ふと、窓の外に視線をやる。
雨だったはずのものが、いつの間にか白く変わっていた。街灯の光に照らされ、ゆっくりと舞い落ちる雪。音はほとんどなく、世界が一段、柔らかくなったように見える。
「……雪か」
独り言のように呟くと、ジョセフも立ち上がり、窓のそばへ寄った。
「ほんとだ。さっきまで雨だったのに」
シーザーも立ち上がり、窓を覗き込む。二人で並んで窓を眺める。肩が触れそうで触れない距離。どちらも一歩引いたまま、ガラス越しに夜を見下ろしている。
「この感じ、久しぶりだ」
「何がだ」
「雪が、音を消す感じ」
ジョセフはそう言って、少しだけ目を細めた。社交界で見せていた表情とは違う。何かを演じる必要のない顔。シーザーはそれを横目で見ながら、胸の奥にわずかな違和感を覚えた。
——帰れと言わなくては
そう思うのに、言葉が出てこない。ただ、雪の降る夜に、この男を外へ放り出す理由が、どうしても見つからなかった。情があるからでもない。ただ単に、面倒だったのだ。判断することが。
「……俺はそろそろ寝る。お前は好きにしろ」
ぽつりと零す。命令でも、許可でもない、曖昧な言葉。
ジョセフは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから静かに尋ねた。
「……ここに、いてもいい?」
「静かにしてるならな……」
「ありがとう」
礼を言われるほどのことではない。そう返そうとして、シーザーは口を閉じた。言い直すのも億劫だった。
シャワーを勧めることもなく、布団を用意することもない。ジョセフは察したかのようにソファへ向かい、背もたれにかけると、そのまま横になった。クッションを一つ抱え込み、ぎこちなく体勢を整える。
「……ここで寝る」
確認するように言う。
「ああ」
それで十分だった。
シーザーはキッチンを片付け、バスルームで顔を洗い、寝室の戸を閉め、ベッドに身を沈める。天井を見つめながら、今日一日の出来事をなぞろうとしたが、思考は途中で途切れた。何が正解で、何が間違いだったのか。そんなことを考える気力は、もう残っていなかった。
リビングから物音ひとつしない。ジョセフは眠りに落ちたのかもしれない。それだけのことなのに、なぜか安堵する自分がいた。
——あいつは本当に、危険じゃないのかもしれない
そう思った。いや、思い込もうとした瞬間、意識は浅い闇に沈んだ。
翌朝、目を覚ましたシーザーは、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。カーテン越しに差し込む白い光。街の音が、いつもより遠い。縮こまった体を起こし、ドアを開けると、キッチンから物音がした。
誰かがいる。
一瞬、警戒が走る。しかしすぐに、昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。
キッチンに立っていたのはジョセフだった。借りた服のまま、ぎこちない手つきでコーヒーメーカーを操作している。豆の量を量り間違えたのか、首を傾げながらカップを覗き込んでいた。
「……何してる」
声をかけると、ジョセフは肩を跳ねさせ、振り向いた。
「お、おはよう。勝手に触ってごめん。コーヒー、淹れようと思って」
「勝手に淹れるな」
「ごめん」
即座に謝る。その反射の速さに、シーザーは溜息をついた。
「……まあいい。俺も飲む」
そう言うと、ジョセフの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと? じゃあ、ちゃんと淹れる」
”ちゃんと” と、わざわざ言う男に、若干の不安を覚えつつ、シーザーは窓の外を見た。雪はまだ降り続いている。白く塗り替えられた街並み。世界は昨夜から続いているはずなのに、少しだけ新しく見えた。
それなのに、この男は今もここにいる。
それだけの事実が、なぜか胸の奥に静かに沈んでいく。何も変わってないはずなのに、何かが違う。そう思いながら、シーザーはコーヒーの香りが立ち上るのを待った。
Episode 6. Equality of power – 1
あれから二週間が過ぎた。特別な出来事があったわけではない。ただ、時間が同じ調子で流れ、その中にジョセフがいた。それだけだった。彼はほぼ毎日、夕方になると律儀にテキストを送ってくる。
「今日は行ってもいい?」「今から向かう」「今日は8時に着く」
短い文面で要件だけを伝える。返事を急かすこともなければ、既読に文句を言うこともない。来る日もあれば、来ない日もある。もちろん、初めは何度か断った。しかし翌日にはまた同じようなテキストが届く。そんなことを繰り返すうちに、断る理由を探す方が面倒になっていた。
家に来れば勝手なことはしない。冷蔵庫を開けても、使う前に一言ある。ソファに泊まる夜もあれば、帰る夜もある。その線引きは曖昧で、しかし越えない。まるで最初から決まっていた境界があるかのように。そして、彼は決して触れようとしなかった。フェロモンはもちろん、欲をコントロールすることなどアルファの嗜みの一つではあるが、しかし彼の振る舞いは徹底的なものだった。
思い返せば、以前の関係はもっと騒がしかった。駆け引きがあり、緊張があり、常に何かを証明しようとしていた。しかし今は違う。ただ生活の隣に、もう一人分の影が増えただけ。それが不思議と苦ではなかったのだ。
夕方のブライアントパークは、昼とも夜ともつかない色をしていた。ビルの影が長く伸び、空はまだ明るいのに、冷気だけが先に夜の顔をしている。リンクの照明が点き始め、氷の上を滑る人影が白く浮かび上がっていた。
シーザーが公園の縁を抜けたとき、ジョセフはすでにそこにいた。ベンチの近く、コートの襟を立てて立っている。手には紙カップが二つ。どちらも小さい。
「……勝手に買うな」
そう言いながらも、足は止まらなかった。ジョセフは一瞬だけ口を尖らせ、それから何も言わずに片方を差し出してくる。蓋に書かれた文字を見るまでもなく、香りで分かった。いつものやつだ。豆も、ミルクの量も、砂糖の有無も、全部。シーザーは舌打ちしかけて、それを飲み込んだ。
「……なんか、このカップ、随分小さいな」
「夜だし。あと、今日は家で食べるんだろ?」
言い切るような口調ではない。ただ、そうだろう、という前提で置かれた言葉だった。シーザーは黙ってカップを受け取り、蓋を外して一口飲む。熱すぎない、ちょうどいい温度。勝手な男だと思う。そう思うはずなのに、どこにも嫌味が引っかからなかった。
二人は並んで歩き出す。スケートリンクの外周に沿って、ゆっくりと。氷を削る音と、笑い声と、遠くのクラクションが混ざり合って、街の音になる。
「今日は仕事どうだった」
「いつも通り」
「そっか」
それ以上は踏み込まない。詮索もしない。その距離感が、妙に楽だった。
リンクの横を通り過ぎるとき、子どもが転んで、派手に尻もちをついた。すぐに立ち上がり、恥ずかしそうに笑っている。それを見て、ジョセフが小さく笑った。
「あーあ、痛そう。ああいうの、昔、俺もやったな……」
「氷の方が割れそうだ」
「シーザーは? スケート好き?」
「スケートか……。あまりやったことないな」
「じゃあ今度、やりに行こうよ」
どうでもいい会話。どうでもいいはずなのに、シーザーはそのまま歩調を合わせていることに気づく。いつの間にか、隣を歩くのが当たり前になっていた。
「ねぇシーザー、この前のパスタ、覚えてる? ひき肉がゴロゴロ入ってる」
「トマトのやつ? ボロネーゼか」
「そう! あれ、美味かった」
「じゃあ今日は、あれにするか? ああでも、肉がないな……」
「ホールフーズに寄ればいい」
提案でも相談でもない。ただの流れだった。方向を変える合図もなく、二人は自然に公園を抜ける出口へ向かう。
歩きながら、シーザーは考える。いつからだろう。こうして、夕飯の話をするようになったのは。誰かと食べる前提で、買い物をするようになったのは。
リンクの明かりが背後に遠ざかる。街路樹の影が歩道に落ち、雪の残りが靴底でかすかに音を立てた。
「……寒くない?」
「大丈夫だ」
即答だった。だからといって、強がっているわけではない。事実をそのまま言っているだけだ。
ホールフーズの看板が見えてくる。ガラス越しに、明るい店内と人影が見える。ここまで来て、シーザーはようやく今日がいつもの延長線にあることを自覚した。
特別な約束はしていない。決め事もない。ただ、仕事終わりに合流して、コーヒーを飲んで、夕飯の材料を買って、同じ方向へ帰る。それだけだ。
それだけなのに、胸の奥に、小さな違和感が積もっていく。
——いつまで、こうしているつもりだ。
問いは浮かんだが、口には出さなかった。出したところで、答えはない。
スーパーの自動ドアが開き、暖かい空気が流れ出す。ジョセフが一歩先に入って籠を抱える。シーザーはそれを当然のように受け入れ、後に続いた。生活が、静かに形を変え始めている。そのことに、まだ名前をつけられないまま。







