Episode 6.  Equality of power – 2

 
 
 
 
 

 その日は、特別な予定のない平日の夜だった。キッチンでは、シーザーが鍋の火加減を見ている。背後で、コートを脱ぐ気配がした。最近はこうして夕方になると、自然にここにいる。それが当たり前になりつつあることに、シーザーは気づかないふりをしていた。
「……なあ」
 ジョセフの声は、いつもより少しだけ歯切れが悪かった。シーザーは返事をせず、鍋をかき混ぜる。
「今度の週末なんだけどさ。ちょっと、顔を出さなきゃいけない集まりがあって……」
「仕事か?」
「いや、仕事じゃない。昔からの友達の家。毎年この時期にやるやつで……まあ、ホームパーティーみたいな」
 鍋の中で、野菜が静かに音を立てる。シーザーは火を弱め、ようやく振り返った。
「で?」
 ジョセフは一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「正直、あんまり楽しくはない。断れないわけでもないんだけど……」
 そこで言葉が途切れる。シーザーは、その沈黙の理由がなんとなく分かってしまい、少しだけ苛立った。
「一人で行くのが、億劫って顔だな」
 図星だったのか、ジョセフは苦笑した。
「まあ……そんな感じ」
「それで?」
「……もし、気が向いたら。一緒に来ないかなって……」
 頼むとは言わない。楽しいとも言わない。ただ提案だけを置いてくる。シーザーはしばらく黙ったままジョセフを見る。最近のジョセフは、こういう言い方をすることが増えた。踏み込まないで決めさせる。逃げ道を残す。
「俺が行っても、邪魔にならないのか?」
「邪魔にはならないよ。……たぶん」
「たぶん、か」
「正直なところ…… “そういう” 集まり」
 ジョセフは肩をすくめた。その仕草が妙に素直で、妙に弱い。
「嫌なら、全然断っていい。無理にとは言わない」
 その言葉に、シーザーは鼻で笑った。
「そういう言い方が、一番断りづらいんだ」
 ジョセフは、少しだけ目を丸くしてから、申し訳なさそうに笑った。
「悪い……」
 シーザーは再び鍋に向き直る。行く理由はない。でも、行かない理由もない。最近、断ることに少し疲れている自分に気づき、舌打ちした。
「……仕方ないな。時間が合えば、顔くらいは出してやる」
 その瞬間、ジョセフの表情がほんの一瞬だけ緩んだ。安堵とも、救われたともつかない、ごく小さな変化。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない」
 シーザーはそう言い捨てたが、胸の奥にわずかな違和感が残った。
 なぜこの男は、一人で行くことをそんなに嫌がるのか。なぜ、自分が同行することで、楽になる顔をするのか。
 答えは出ないまま、鍋の中の湯気だけが、静かに立ち上っていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 6.  Equality of power – 2

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 パーティーは、アッパー・ウエストサイドの古いタウンハウスで開かれていた。エントランスを抜けた瞬間、シーザーは空気の密度が変わるのを感じた。広いリビング、壁一面の本棚、暖炉の火。どれも過剰ではないが、余裕を前提にした設えだ。ここは努力して辿り着く場所ではなく、最初から与えられている場所だと無言で主張している。
 コートを預けると、すぐに声が飛んできた。

「やぁ、ジョセフ」
 振り向くより早く、スーツ姿の壮年の男たちが数人、こちらに近づいてくる。ジョセフは反射的に背筋を伸ばし、柔らかく笑った。
「久しぶりです」
「元気そうだなジョセフ!相変わらずだ」
 相変わらず、という言葉に含まれた意味を、シーザーは測りかねた。だが次の言葉ですぐに察した。
「この前の件、君ならもう把握してると思ってたよ、助かった!」
「いえ……あれはこちらの仕事ですから……」
「さすがだな。君の家なら、あれは当然だ。素晴らしい対応だったよ」
 家、という単語が当然のように使われる。ジョセフは曖昧に相槌を打ち、話題を深追いしない。だが相手はそれを気にする様子もなく、次々に言葉を重ねる。シーザーは、そのやり取りを半歩引いた位置から眺めていた。誰も威圧的ではない。むしろ親しげで、期待に満ちている。だがその期待は、祝福というより、役割の当て付けに近い。
 ジョセフは笑っている。けれどその笑顔は、社交界で見るものとは違った。ほんのわずか、視線が逃げる。言葉を受け止めるより、やり過ごすための表情。

「――君のお父さんも期待してるぞ」

 挨拶のように、軽く投げられた言葉。しかしジョセフの肩が、ほんの一瞬だけ強張る。
「……もう、そんなところまで話が行ってるんですね」
「当たり前じゃないか!」
 笑いながら言われるその一言に、冗談の余地はなかった。褒められているわけでも、評価されているわけでもない。ただ、“期待されている” という事実だけが、当然の前提として置かれている。まるで未来が、すでに決まっているかのように。
「そういえば最近、アスターファミリーのパーティーにも行ったそうじゃないか」
「ええ。少しだけ……」
 ジョセフが答えると、男は満足そうな笑みを浮かべて頷く。
「そうか、そうか!お前も最近、社交に慣れてきたようだな!」
 短いやり取りの中で、話題の輪郭だけが共有される。何の件かは言わない。説明もない。ここでは、それで十分なのだ。
「……それでお前、結局、あそこには行くんだろ?」
 別の男が、確認するように言った。
「……行く、と思う」
「 “思う” じゃないだろ。全く。お前はことの大きさを分かってない」
 その言葉に、ジョセフは一瞬だけ視線を落とした。否定もしない。反論もしない。ただ、受け止める。

 シーザーは直感的に感じた。ここでのジョセフは “判断する側” ではなく、“判断を背負う側” なのだと。

「こちらは?」
 やがて、一人がシーザーに気づいた。不意に向けられた視線に、シーザーはわずかに背筋を伸ばす。
「俺の、大切な友人です。シーザー。シーザー・A・コッポラ」
 その言い方は即座で自然だった。だがその瞬間、空気が一度、軽く切り替わる。
「そうか。歓迎するよ、シーザー君」
 差し出される手のひら。柔らかい視線。完璧な程に整った笑みの形。まさに熟練のホストとしての洗練された振る舞い。一切の失礼はない。けれど、そこには明確な線が引かれていた。紹介されるべき存在、歓迎される存在。しかし、内側には入らせない存在。
 シーザーはその線を正確に理解した。社交界ではこうした線はもっと曖昧だ。技術で越えられる余地がある。だがここでは違う。線は、生まれた時点で引かれている。

――血統書付き、か。

 かつては、垢抜けない若造だと思っていた男が、この場所では最初から “そういう存在” として扱われている。その事実が遅れて胸に落ちてくる。
 ふと視線を戻すと、ジョセフがこちらを見ていた。それはこの場にいる誰とも違う温度だった。シーザーは、何も言わずに微笑み、会話の流れを変えるように軽い冗談を挟んだ。場の視線が自然に散る。ジョセフは小さくホッと息を吐いた。それは安堵とも、疲労ともつかない吐息だった。その様子を見ながら、シーザーは初めて気づく。

――この男は、自由ではない。

 自分が常に外側であるのと同じように、ジョセフもまた、別の檻の中にいる。その檻は、豪奢で、温かく、逃げ場がない温室のような残酷な檻だ。シーザーは、ジョセフがなぜ自分を呼んだのかを直感的に理解した。それは信頼なのか、それとも利用なのか。意図を考えることも出来たが、それ以上に、ジョセフがこの場においてどのような存在なのかをもっと確かめたかった。
 シーザーは意識的にジョセフから半歩だけ距離を取った。寄り添いすぎると、余計な視線を集める。かといって離れすぎれば、ジョセフの居心地が悪くなる。その微妙な間合いは、長年の社交で身体に染みついている。

 グラスを手に、周囲を見渡す。そこにいるのは一人残らずアルファの人間だとわかった。容姿、体格、自信に満ちた視線、そして匂い。日常の全てがアルファの規格で固められている、そんな場所だった。ベータはもちろん、オメガが紛れ込んでいることなど一寸も疑えないほどに、彼らはアルファとして当たり前に生きている。
 シーザーは近くにいた二人組に軽く声をかける。天気の話、最近の街の変化、ワインの出来。内容はどうでもいい。重要なのは、相手に話させることだ。質問は短く、相槌は深く。決して自分の背景を語らない。
 相手が笑う。それで十分だった。誰かが、シーザーのアクセントに気づく。
「イタリア系?」
「ええ。正確には父が、ですが」
「なるほど。どうりで料理の話がうまいわけだ」
 軽い冗談に、軽く笑って返す。この程度なら問題ない。社交界で鍛えた英語は、こういう場ではちょうどいい仮面になる。丁寧で、癖がなく、踏み込みすぎない。だが、会話が内輪の話題に移ると、微妙なズレが生まれる。
「覚えてるか? ヴァンダービルトのあの一件。3年前か」
「もちろん覚えてるよ。いや、あれはもっと前だろ。コロナの前。まさにアンドリューの再来だったな」
 笑いが起きる。シーザーは遅れないように口角を上げるが、何が面白いのかは分からない。聞き返して流れを壊すほどでもない。ただ一拍、置いていかれる。
 それでも、居心地は悪くなかった。このような空気には慣れている。そしてこの場での自分の役割は明確だ。
 内輪には入らない、だが、場の空気も壊さない。求められれば応じ、深入りはしない。それだけだ。

「君、話しやすいな。ええと、シーザーだっけ?」
 そう言われた時、シーザーは小さく頷いただけだった。話しやすい。それは評価であり、同時に境界線でもある。

 ふと、部屋の向こうでジョセフの姿を探す。彼は誰かに囲まれ、相槌を打ちながらも、視線だけが宙を彷徨っていた。笑顔は崩れない。だが、楽しんでいるわけではないことは、遠目にも分かる。

――なぜ、俺に聞くんだ、ジョセフ。君が決めればいい
――君なら、大丈夫だ

 聞こえてる会話は、乾いた正しさと、肉のない期待の渦でしかなかった。考える余地がないほどに、常に正しい役割を期待されている。アルファらしく、男らしく、世界をリードする者として。ジョセフの周囲にはそんな空気がまとわり付いていた。
 シーザーはさりげなくその輪に近づき、話題を横にずらす。最近の投資動向、街の再開発、誰かの噂。ジョセフに向けられていた視線が、自然に散っていく。
 ジョセフがちらりとこちらを見る。その視線は感謝というより、存在の確認に近かった。シーザーは何も言わず、グラスを持ち替えた。この場での自分はゲストでしかない。だが、その立場だからこそできることがある。
 内側には入れない。だが、外側だからこそ、見えるものもある。

「結局さ、戻る場所があるかどうかだよな」

 話題は、自然と家柄や血統の話へと流れていった。仕事の延長のようでいて、どこか違う。数字でも契約でもない、もっと根の深い話だ。グラスを傾けながら、誰かが言った。

「若いうちは好きにやれる。でも、最後は血だ」

 その言葉に数人が頷く。否定はない。ここではそれが前提だ。

「ジョセフ、それで、お前のところならどうなる?」
 名前を呼ばれた瞬間、ジョセフの肩がわずかに強張ったのがシーザーには分かった。ほんの一瞬のことだ。気づく者は、ほとんどいないだろう。
「……ジョーンズ家なら、もう話はついてると思う」
 ジョセフの答えは短かった。それ以上は語らない。誰も深掘りしなかった。
「だよな」
「やっぱり、ジョセフは違うな」
 羨望でも、皮肉でもない。ただの確認。

 ”血がそうだから”  ”家がそうだから”

 それで話は終わる。シーザーは、その輪郭を静かに見ていた。ジョセフは最初からそこに置かれている。努力や才能の話ですらない。血や家という戻る場所があるという、それだけの事実。しかし一人の男がジョセフの言葉尻を捕まえる。

「ジョセフ、”お前なら” この話にどう折り合いをつける?」

 他愛のない質問のようでいて、そこには逃げ場を塞ぐ残酷な響きがあった。血統や家柄といった構造の話を個人の意見にすり替える。それは明白な暴力だとシーザーには分かった。しかし、周囲の取り巻きたちは一様に口を噤み、ただジョセフが発する “正解” を待っている。ジョセフの顔色が一段と暗くなる。その指先の微かな震えに、シーザーの胸の奥で煮えくり返るような怒りが跳ねた。
「君は父君に甘えすぎじゃないか。いずれは君がこの盤面を引き継ぐ。それは逃れられない確定事項だ」
 男はグラスを傾けながら、ジョセフを品定めするように見た。視線、言い回し、所作、言葉に滲む微妙なアクセント。シーザーは一瞬でその男がどのような人間なのかを悟る。
 会場を包む重厚なバロック美術さえ、この男の前ではただの背景に過ぎない。界隈のフィクサーと呼ばれる老齢の男は、クリスタルのグラスを微かに傾け、琥珀色の液体越しにジョセフを凝視した。その視線は、人間を見ているのではない。これから市場に投入される未完成の装置の不備をチェックするかのような、乾いた手触りの視線だ。
「いいか、世の中には “選ぶ側” と “選ばれる側” しかいない。お前が前者であり続けるためには、人々を適切に……そう、管理する術を学ばなければならない。お前はなぜ、いつまでも選ぶ権利を放棄している?」
 ジョセフが何かを言いかけたが、男はそれを柔らかな、しかし鉄のように硬い言葉で遮った。
「感情を動かすのはお前の役目ではない。それは彼ら――大衆の特権だ。現場を見るな、構造を見ろ。お前の判断一つで、数万人の生活が最適化される。その重みを自覚しろ」
 男はゆっくりと立ち上がり、ジョセフの肩に手を置いた。慈父のような手つきだが、その目は少しも笑っていない。

「チェス駒になるな、ジョセフ。プレイヤーになれ。駒は最後、盤上から消える」

 ジョセフの肩に置かれた男の手。その指先が、服の生地越しに若者の自由を奪っているように見えた。重苦しい沈黙が、まるで澱(おり)のように足元に溜まっていく。
 シーザーは、手元に残っていたワインを小さく揺らし、わざと大理石のテーブルにグラスを垂直に置く。
 ――カツン、と、その乾いた音が、男が作り上げた支配的な結界に小さな亀裂を入れた。

「ところで」

 シーザーは、極めて自然なトーンで、しかし全員の鼓膜に届く明瞭な声で切り出した。
 男の冷徹な視線が、ゆっくりとジョセフからシーザーへとスライドする。獲物を横取りされた肉食獣のような眼差しだ。シーザーはそれを、柔らかな微笑みで受け流した。

「先ほどの構造の話、非常に感銘を受けました。ですが、その精巧な時計仕掛けに、少しだけ面白い不確定要素を、このジェノバの商人から加えてもよろしいでしょうか」

 シーザーは椅子に深く背を預け、まるで土産話を披露する子供のような気安さで続けた。

「 “現場” から仕入れた新鮮なやつですよ」
 声のトーンは柔らかく。しかし否定ではない。ただ角度を変える。何人かがこちらを見る。警戒ではなく、興味の目だ。
「ニューヨークの下界には、実に面白い構造の法則があるんです。地下鉄の壁をコンクリートごと盗んでいった、あるオークションハウスの男をご存知ですか?」
 シーザーは、具体的な事例を一つだけ挙げた。名前は出さない。名詞も最小限。だが、空気が少し動くのが分かる。

「なんだそいつ」
「そいつは何が欲しかったんだ?」

 わずかな綻びが、まるでにほつれた糸のように、静かに広がっていく。誰かが身を乗り出し、誰かがグラスを置き直す。さっきまでジョセフに向いていた視線が、いつの間にか互いを行き来し、別の場所へと落ち着いていく。

「彼が欲しがったのは、名画でも宝石でもない。昨日まで子供たちが泥を塗って遊んでいた、ただの “落書き” です」

 小さな失笑が起きた。だが、それは嘲りではなかった。
「……なるほどな。現場の熱というのは、計算を裏切るものさ」
 近くの男がそう言うと、誰かが続きを促すように無意識に頷く。
「価値というのは、不思議なものでしてね。置かれる場所が変わるだけで、まるで別の顔を見せる」
 また別の男が言葉を落とした。まるで口当たりの良い音を口づさむかのように、周囲の会話はもうシーザーの手を離れていった。名前の出ない固有名詞と、半端な噂話が互いに結びつき始める。シーザーはそれ以上、言葉を足さなかった。空気は渦となり、新しい空気が生成される。シーザーはその空気を見届けてから、先ほどの男を見る。男は、ジョセフの肩からゆっくりと手を離した。その指先が離れる瞬間、ジョセフの肺にようやく酸素が戻ったように見えた。男は周囲の会釈を背中で受け流しながら、一度も振り返ることなく、澱みのない足取りでバルコニーへと消えた。

 その後も、ジョセフはこの空間の空気から少し距離を取っているのが見てとれた。会話の中心から外れ、グラスを手に、周囲の動きを見ている。シーザーは自然と立ち位置を変え、ジョセフのすぐ隣に腰を下ろした。盾になるほど露骨ではない。ただ、視線の流れを遮る位置。誰かがジョセフに声をかければ、すぐにシーザーが話題を切り替える。それでいい。それがこの場での自分の役目だ。ジョセフがこんな場所で疲弊する必要などない。しかし一方で、シーザーの前で内輪の話が広がると、今度はジョセフが一歩前に出る。
「……そんなことよりさ、新しくブルックリンに出来た韓国系のミシュラン。美味かったよな、シーザー」
 穏やかな声だったが、他の人間が会話を戻す余地はなかった。
「ああ、あそこは美味かった。ぜひ、行って頂きたい。おすすめの料理は……」
 誰も異を唱えない。ジョセフの言葉は、この場で “そういう効力” を持っている。お互いの役割が自然に分かれていた。誰かが決めたわけではない。打ち合わせもしていない。ただ、互いに出来ることと、出来ないことを理解している。
 自分はこの場に属することはできない。だが、この男の隣に立つことはできる。

 ジョセフと視線が交わる。言葉はない。しかしそれで十分だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 パーティーを終えた夜は、思ったよりも静かだった。建物を出ると、昼間より一段冷えた空気が頬に触れる。舗道はところどころ湿っていて、街灯の光をぼんやりと反射していた。さっきまでの熱気が嘘のように、ニューヨークは夜の顔を取り戻している。
 二人は並んで歩いた。どちらからともなく距離を詰めたわけではないが、離れる理由もなかった。コートの裾が擦れる音と、靴底が舗道を叩く音だけが一定のリズムを刻む。
「……寒いな」
 ジョセフがぽつりと言う。独り言に近い声だった。
「二月だからな」
 シーザーはそれだけ返す。会話を続ける気も、断ち切る気もない。今は、そのくらいがちょうどよかった。
 通りを一本曲がると、車の音が遠ざかり、風が少し強くなる。街路樹の枝が擦れ合い、乾いた音を立てた。ジョセフは無意識に首をすくめ、歩調を落とす。その横顔は、さっきまでの “家の名を背負った男” ではなく、ただの疲れた青年に戻っていた。

「……今日は、ありがとう」
 信号が変わる直前、ジョセフがそう言った。 礼を言うには遅すぎるようで、言わないには早すぎるタイミングだった。
「別に」
 シーザーは肩をすくめる。
「……俺も、あの場は好きになれない」

 信号が変わり、ジョセフが一歩道路へと踏み出す。
 その背中は、誰にも寄りかかれないまま、役割だけを背負っているように見えた。
 シーザーは思わず、ジョセフの手を掴む。どうしてそんなことをしたのかは分からない。ただ、自然と腕が伸びていた。同情かもしれないと、シーザーは思うことにした。
 ジョセフは反射的に振り向き、一瞬だけ目を丸くする。そしてすぐに目を細めて照れ臭そうに笑った。不器用に、指を絡ませながら。

 街の光が流れ、夜が深まっていく。特別な約束はない。ただ、自然と同じ方向へ帰る。地下鉄の入口を過ぎ、黄色のタクシーが流れる通りに出る。信号が切り替わると、二人は同時に止まった。指先は絡んだまま、ブレーキランプの赤い光が、二つの影を長く伸ばす。

 ただ、同じ方向へ帰る。それだけのことが、今夜は妙に自然だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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