Episode 7. The power to choose (*R-18)

 
 
 
 
 

 支度をする時間は、思ったよりも静かだった。ジョセフは洗面所でネクタイを結び、シーザーは寝室の鏡の前でジャケットの肩を整える。言葉はほとんど交わされない。ただ、同じ空間に二人分の衣擦れの音がある。
 先に支度を終えたジョセフがリビングに出てきたとき、シーザーは一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らした。

——アルファの顔だ。

 そう思ったのは、顔立ちの問題ではない。立ち姿、呼吸の置き方、空気を整える仕草。場に出るための皮膚を、きちんと纏っている。かつてはどこか不器用で、教えられる側だった男が、もう一人で立っている。
 シーザー自身もまた、鏡の中で同じ顔をしていた。オメガであることを隠すために磨き上げたアルファの仮面。それは使い慣れたもので、今も違和感なく嵌まっている。

「……行くぞ」

 それだけ言って、二人は家を出た。

 ジョセフとの共同生活は、すでに一ヶ月以上が経とうとしていた。日常という言葉でくくれてしまうほどに、ジョセフの存在があまりにも馴染みすぎている。違和感を覚えつつも、彼を拒むこともなければ、彼が離れていくこともないまま、時間ばかりが過ぎていた。
 今回の社交はジョセフの誘いだった。一人で行きたくないとしきりに言うものだから、シーザーは渋々同伴する。最近はそういう構図が増えてきた。他愛のない政治団体の社交イベント。シーザーがよく顔を出す金融界隈やNPOの集まりとは、毛色の違う場だった。
 会場に入ると、空気が一段だけ変わる。香水、酒、フェロモン、視線。慣れ親しんだ圧力だが、少し人間の色が違う。シーザーは自然に背筋を伸ばし、ジョセフの半歩後ろに位置を取った。挨拶、紹介、軽い冗談。二人は息の合った動きで場を回す。相手の言葉を拾い、話題を繋ぎ、必要なところで引く。かつてはシーザーが舵を取り、ジョセフがそれを支える形だった。だが今は、ジョセフ自身が場を読んでいる。
 
「もう、こいつに、手綱はいらないのかもな……」

 数人との会話を終えたあと、シーザーは足を止め、ジョセフの方を見た。
「ジョセフ。少し、別で動こう」
 ジョセフは驚いたように瞬きをする。
「……一緒がいい」
「少しの間だ。お前なら大丈夫」
 その一言で、ジョセフは黙った。納得したわけではないだろう。それでも、シーザーの判断を尊重する癖は、まだ残っている。
「……分かった。あとで合流する……」
 そう言って離れていく背中を見送りながら、シーザーは胸の奥に小さな区切りを置いた。関係が変わったことを社交の場でも認めざるを得なかった。
 しばらくして、シーザーは別の輪に加わる。少し派手な雰囲気の若い集団と、古くからの馴染みといった顔ぶれが混じった場だ。話題は政治資金、個人事業、そしていつの間にか、酒の勢いに任せた私的なものへと滑っていく。

「この前さ、オメガだったんだ」

 誰かが声を落として言う。周囲がくすりと笑う。
「マジ? どうだった?」
「おい、やめろよ」
「いいじゃねぇか。なんだ、お前、もしかしてまだ未経験?」
「ふざけんな! オメガくらいヤってる」
 クスクスと笑う声。会話に参加しない者も、何かを知ったような顔でグラスを傾ける。
「やっぱ違うよな」
「匂いがさ、たまんねぇよな……」
 言葉は軽い。下品ですらあるが、誰も止めない。むしろ同調が広がる。経験談が断片的に零れ落ち、オメガはいつの間にか ”語られるもの” になっていく。
「やっぱ一度はヤっとかないと」
「で? どうだったんだよ。ちなみに、女? それとも男?」
 シーザーは笑顔を保ったままグラスを傾ける。相槌を打ち、空気に溶け込むふりをする。だが、身体の奥が冷えていくのを止められなかった。
 怒りではない。嫌悪でもない。もっと鈍く、逃げ場のない感覚。自分がこの構造の中で、どこに置かれているのかを突きつけられる痛み。ここでは、自分は搾取され、語られる側だという現実。
 それに気づいた瞬間、不意に息が詰まった。これ以上ここにいる理由が見つからない。

「……失礼する」
 誰にともなく言って、シーザーは輪を抜けた。

 外に出るとようやく呼吸が戻る。ミッドタウンのビルとビルの間に挟まれた小さな広場は、社交パーティーの会場から数歩離れただけなのに、まるで別の世界みたいに静かだった。高層ビルのガラス壁が、さっきまでの音楽と笑い声を鈍く反射して、ここには届かせない。地面にうっすら残った雪は、昼間に踏み固められて、もう白とは言えない色をしている。
 シーザーはスーツのポケットに手を突っ込み、吐く息が白くなるのをぼんやりと眺めていた。中に戻る気にはなれなかった。あの場で起きたことを思い出すと、喉の奥がざらつく。笑って流すには少しだけ生々しすぎた。
 背後でドアが開く音がして、すぐに閉まる。革靴が石畳を踏む軽い音。振り返らなくても誰が来たのかは分かった。

「シーザー? 大丈夫?」

 聞き慣れた声。その声はそれ以上聞かない。その一言だけ。その距離感に、シーザーは救われるような気がした。

 この一ヶ月、ジョセフは一度も自分をオメガとして扱わなかった。触れることもなければ、確認もしない。詮索もしない。あの日のヒートについても、一度も口にしない。そして、誰にもあの一件を話したりしなかった。
 それでも、ジョセフも彼らと同じように、あの出来事を武勇伝のように思っているのだろうか。そんな考えが一瞬だけよぎるが、すぐに振り払った。
 ジョセフの声は、会場の中にいたときよりもずっと低く抑えられている。気を遣っているのが声の端から分かった。
「急にいなくなったからさ。何かあった?」
 ジョセフは数歩離れたところで立ち止まり、シーザーの横に並ばない距離を選んだ。触れないけれど、離れすぎてもいない。その間合いが、ここ一ヶ月ほどでやけに自然になっていることに、少しだけ苛立った。
「……別に」
 そう言いながら、嘘だと分かっているのは自分だけだった。社交場で乱雑に投げ打たれる言葉。どれも過去に何度も見てきた種類のものだ。属性でひとまとめにされ、都合よく解釈される。

――でも、ジョセフは違う。

 そう思ったのは確かだった。それなのに、胸の奥に引っかかった不快感は消えない。

「今日はもう帰ろうか」

 ジョセフがそう言った瞬間、シーザーの中で、何かが引っかかった。
 帰る、という言葉に含まれた「一緒に」という前提。疑いもなく、当たり前のようにそこにあるもの。

 なぜだ、と唐突に思った。

 なぜ、この男はここにいる。
 なぜ、追いかけてくる。
 なぜ、当然のように隣に立とうとする。

 シーザーはポケットから手を出し、冷えた指先を擦り合わせた。考えないようにしてきた問いが、喉の奥までせり上がってくる。

「なあ」
 自分の声が、思ったよりも硬かった。
「……なんでお前、俺にこだわるんだ」
 以前同じことを聞いたのを、言った後に思い出した。そして、言ってしまったあとで、逃げ場のない質問だと気がつく。
 ジョセフは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに困ったような、呆れたような曖昧な顔になった。
「なんでって、そんなの……好きだからだよ」
 当たり前のことを言うみたいに肩をすくめて微笑んだ。それはあまりに自然で、拍子抜けするほどだった。社交場の中で交わされていた軽い会話よりも、よほど率直で、よほど飾り気がない。
「……」
 シーザーが何も言わないでいると、ジョセフは少しだけ首を傾げた。

「シーザーは?」

 その一言で、足元の石畳が少し傾いた気がした。
 問い返されることを想定していなかったわけではない。しかし実際に投げ返されると、何も言葉が出てこない。

――好きだから。

 その言葉は、これまでに何度も聞いている。否定はしていない。なかったことにもしていない。ただ、どこか遠くに置いたまま、正面から受け取らずにきた。

――じゃあ、俺は?

 答えを探そうとした瞬間、別の考えが浮かんだ。なぜ自分はこの一ヶ月、ジョセフをきっぱりと拒絶しなかったのか。それは、断る理由を探すのが面倒だったからだ。そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。忙しかったし、説明するのも疲れるし、今さら関係を整理するのが億劫だっただけだ、と。
 でも、本当にそれだけだったのか。

 夜の冷気が、上着の隙間から入り込んでくる。気づけば、ジョセフが家にいるのが当たり前になっていた。朝、コーヒーの匂いがして、ソファに誰かの気配があることに、違和感を覚えなくなっていた。

――この男を好きになるはずがない。

 そう思っていた。立場的に、過去的に、いろいろな理由で。だから、考えないで済むようにしていた。
 シーザーは視線を落とし、靴先についた雪の跡を見つめた。

「……わかん、ねえよ……」

 絞り出すように言うと、ジョセフはそれ以上、何も言わなかった。
 ただ、そこに立っている。何も言わず、しかし去らない。ただ当たり前のようにそこにいる。それだけのことなのに、なぜか耳の奥が熱かった。

「帰ろうシーザー」

 ビルの隙間を抜ける風が、二人の間を通り過ぎていく。社交場の音楽は、もうほとんど聞こえなかった。答えは出ていない。けれど、シーザーはその夜、自分が何を先延ばしにしてきたのかだけは、はっきりと自覚していた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 7. The power to choose

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 家に帰る頃には、ミッドタウンの喧騒はもう遠くなっていた。玄関のドアが閉まる音が、思ったより大きく響いて、シーザーは一瞬だけ肩をすくめた。
 コートを脱ぎ、靴を揃える。いつもの動作。ジョセフは特に何も言わず、リビングの照明を少し落とした。ふたりとも、何の話題にも触れなかった。触れないことが、いつの間にか暗黙の了解みたいになっている。
 先にシャワーを浴びたのはジョセフだった。バスルームから聞こえる水音を、シーザーは今朝のままになっていたキッチンを片付けながら聞いていた。いつもならなんの変哲もない音がやたら鼓膜に響いてくる。
 次に自分の番が来て、シャワーを浴び、髪を拭き、部屋に戻る。身体はちゃんと疲れているはずなのに、頭の奥だけが冴えていた。
 寝室のドアを閉める前、リビングの様子が視界に入る。ソファにはすでにブランケットがかかっていた。ジョセフは横になって天井を見上げている。テレビは消えていて、部屋は必要最低限の明るさしかない。

「おやすみ」
 シーザーが言うと、ジョセフは軽く手を上げた。それだけ。いつも通りだ。
 寝室に戻り、ベッドに腰を下ろす。マットレスがわずかに沈む感触。スマートフォンを手に取ったが、画面を見る気にはなれず、すぐに伏せた。いつもなら、ここで思考は途切れる。ジョセフがリビングで寝ていようが、何も考えずに眠れる。
 それなのに、さっきの声が、頭の中で繰り返される。

――好きだから
 
 それに続く問い。

――シーザーは?

 シーザーは仰向けになり、天井を見つめた。白い天井。何の模様もない。なのに、目を閉じると、ビルとビルの間の冷たい空気が、はっきりと思い出される。
 断る理由を探すのが面倒だった。それだけでここまで来たはずだった。でも、ソファにいる男の気配を思い浮かべた瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。

 しばらく天井を見ていたあと、シーザーはベッドから起き上がった。どうしても、このまま眠れそうになかった。
 ドアを開けると、リビングはほとんど暗かった。窓の向こうに、セントラルパーク沿いの街灯が並んでいるのが見える。葉の落ちた木々が、影だけになって揺れていた。
 ソファではジョセフがまだ起きているように見えた。横になったまま何もしていない。天井を見ているだけ。
「……起きてる?」
 自分でも驚くほど普通の声だった。ジョセフは顔だけをこちらに向ける。
「うん」
 それだけ。何も聞かない。
「眠れなくてさ……」
 シーザーはキッチンに向かいながら言った。
「少し飲まないか。バーボン、残ってたろ」
「いいよ」
 グラスを二つ出し、氷を入れる。氷が触れ合う乾いた音が、夜の部屋によく響く。
 会話はしばらく本当に他愛なかった。パーティーの料理がどうだったとか、誰が妙に饒舌だったとか、帰りの道が混んでいたとか。どれも、これまで一ヶ月やってきた種類の話だ。
 ただ違うのは、二人が同じソファに並んで座っているということだった。
 グラスが半分ほど空いた頃、シーザーは自分でも意図せず、指でグラスの縁をなぞっていた。しばし沈黙が落ちる。その沈黙を、今日はやり過ごせなかった。

「なあ、ジョセフ……」

 ほんの少し、声が震えた。

「……なんで、お前は……」

 一度、言葉を切る。確信に触れないように、いつもならここでやめる。でも、今日は逃げずに続けた。

「……俺に、触れないんだ?」

 耳の奥に妙な熱がこもった。視線は意味もなく、グラスの氷に落ち続けた。

「……お前はこの一ヶ月、一度も、触れなかった……」

 問いというより、事実の確認みたいな言い方だった。ジョセフは少し考えてから、グラスを置いた。氷が小さく鳴る。即答ではなかった。

「……また、嫌な思いさせたくなかった」

 迷いのない声だった。その言葉にシーザーは思わず視線を揺らした。部屋の片隅に見える闇が、さっきの広場の夜と重なる。

「……俺は、選べる人間だから。望もうと、望まなかろうと……」

 社交場にいたフィクサーの言葉が思い出される。家柄、そしてアルファという血統。ジョセフは常に何かを選び、支配できる人間であることを。

「俺がシーザーを選んだら、それは支配になる。そんなのは、嫌なんだ」

 ジョセフはゆったりと視線を上げた。

「だから、触らないことを選んだ……」

 ジョセフはそう言って、少しだけ笑った。ジョセフの視線が自分を捉えている気配がある。しかしまだ目を向けることは出来なかった。どんな顔をすればいいのかわからなかったのだ。
 アルファがオメガを選ぶこと、支配することは容易い。オメガの意志に関係なく、オメガの本能はアルファを求める。アルファはいくらでも特権的な言い訳ができる立場にある。ジョセフは誰よりもそれを身に染みて理解していた。
 シーザーは、ジョセフの言葉に嘘がないことを感じた。触れない理由が、欲望の不足じゃないこと、自制だということ。選べる人間が選んだ選択の一つであること。ジョセフはもしかすると、選び続けることに疲れているのかもしれない。

「……お前はずっと、このままでいいのか?」

 口に出してから、質問の重さに気づく。
 ジョセフは答えなかった。ただ、テーブルの上に置かれたグラスを一瞬だけ見てから、視線を戻す。

「……シーザーが、選んでよ……」

 その言葉は静かだった。押し付けでも、覚悟の表明でもなく、ただの現状説明みたいに。しかしその声は淡い熱を帯びていた。
 シーザーは息を吸い、ゆっくりと吐いた。いつの間にか、この男は “触れない” という選択まで含めて、そばにいることを選んでいる。それが、思っていたよりもずっと重いことに気がついた。

「……いいのか? 俺が選んで……」

 ようやく視線を上げ、ジョセフの顔を見る。

 濡れた青、その近さに、シーザーは思わず息を呑んだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 人に触れること自体が、随分と久しぶりに思えた。衝動というより、確かめるような動きだった。シーザーはジョセフの肩を押し、ソファに身体を沈ませる。クッションが低く息を吐き、夜の静けさがわずかに揺らいだ。
 ジョセフは抵抗しなかった。ただ、見つめてくるだけ。
 逃げもしない。抱き返しもしない。
 その視線が、妙に落ち着いていて、シーザーは一瞬だけ戸惑った。欲望の兆しも、遠慮の壁もない。ただ、待っている目だった。

「……随分と、しおらしいな」

 冗談めかした声で言うと、ジョセフは曖昧に笑った。否定もしないし、肯定もしない。しかし拒絶の色はない。それどころか、触れてほしいと願っていることだけが、逆にくっきりと伝わってくる。それが奇妙だった。オメガを前にしたアルファの態度としてはあまりにも静かすぎる。奪う気配も、導く気配もない。しかし言葉で確かめるのは、あまりにも野暮に思えた。だからシーザーは、考えるのをやめた。

 ジョセフの頬に、軽く唇を触れさせる。キスというほどのものでもない、確かめるための接触。続けて耳元に顔を寄せ、息がかかる距離で、そっと啄む。指先ではなく、唇で。次に、首筋に歯を立てる。噛むというより、痕が残らない程度に触れるだけだ。
 ジョセフの身体が、わずかに震えた。それでも、彼は何もしなかった。抱き寄せることも、手を伸ばすこともない。ただ、喉が小さく鳴り、呼吸が深くなる。それだけで、まだ何かを待っている。シーザーはその様子を見下ろしながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
 これは、主導権を取っている感覚とは違う。
 その静けさが、夜の部屋に重く落ちる。この先に進めば、もう戻れない。シーザーは、ジョセフの視線の奥にあるものをようやく理解した気がした。
 シーザーは一度だけ息を整え、ジョセフの腕を取った。強くはないが、迷いもなかった。
「……来い」
 それだけ言って、寝室へ引きこむ。
 ジョセフは一瞬だけ驚いた顔をしたが、抵抗しなかった。問いも返さない。ただ、引かれるままについてくる。その顔には、安堵と緊張が入り混じったような気配があった。ベッドに辿り着くと、部屋はリビングよりもさらに暗かった。カーテン越しに、セントラルパークの街灯がぼんやりと光を落としている。葉を落とした枝の影が、壁に絵を描いていた。シーザーはジョセフを座らせ、自分も隣に腰を下ろす。
 すぐには触れない。
 その一瞬の間が、ジョセフには長く感じられたのか、浅く息を吸い直す音が聞こえた。

「……シーザー?」
「黙ってろ…っ……」

 言葉が響くことが、なぜか怖かった。なぜかは分からない。しかし言葉は自分を裸にするような気がした。シーザーは隣の男の肩を掴んで、ベッドに押し倒した。
 それからは何かを考えていたわけではない。体の動くまま、本能の導くまま、ジョセフという男にだけ意識を向けていた。部屋着をはぎ取り、下着も乱暴にむしりとり、丸裸にして自分のベッドに組み敷いた。あまりにも完璧なアルファの体がそこにはあった。そしてその体に、湧き上がる全てのものをぶつけようと思った。まるで獲物を手に入れた捕食者のような本能が、なぜ泣いてるもか分からない子供のような感情が、体の影から沸き起こる。それは消えかかっていたアルファの本能の痕跡だったのだろうか。目の前の雄々しい筋肉に噛みつき、熱く滑る肌を抱きしめると、体の奥から突き上げるような多幸感が溢れた。

「……あ、ああ、シーザー……っ……」

 ジョセフがようやく手を伸ばした。その向こうに、甘く溶ける青が見える。アルファの威厳が淡くとろけていく様子は、あまりにも背徳的な光景だった。

「シーザー、きて……もっと、お願い……っ……」

 その声は懇願していた。本来なら、アルファである男が誰かに甘えたいなどと口にすることはできない。抱いてほしい、委ねたい、選んでほしい――そういった感情が目の前に溢れかっている。ジョセフは長い時間、立場と自尊心の奥に己の欲望を押し込めて生きてきたのだろう。シーザーはそれを直感で理解した。そして、その事実が、胸の奥を静かにほどいていくのを感じた。
 この男は、自分をオメガとして求めていない。支配の対象としても、発情の器としても見ていない。ただ、判断を委ねる誰かとして、抱いてくれる誰かとして、自分を求めてここにいる。それは奇妙なほど、安心できる感覚だった。シーザーはジョセフの体を力強く抱きしめた。
 ふわりと、オメガとしての本能が体の奥でかすかにざわめく。だが、振り回されるほどではない。長い時間をかけて、自分の身体と感覚を制御する術を身につけてきた。腹の奥、尾てい骨のさらに奥の甘い場所が、ぎゅっと何度も疼いた。抱かれるべき生き物としての本能がどろりと溶け出す気配がする。しかしそんなものは、もはや今のシーザーにとっては、ただの現象にすぎなかった。
 ジョセフの穴は狭く閉じていた。自分の穴は本能のおもむくままに柔らかく解けていく。しかしジョセフのそこは、頑なに、誰一人の侵入を許さないと言わんばかりに、筋肉に守られている。そこに指を付き入れると、ジョセフは息の詰まったような音を漏らした。

「力を抜け……」
「……ぅ、ん、やってる……」
「まだ、きつい。ほら、抜けよ」

 指を中で滑らせると、ジョセフの体は素直に強張った。受け入れるべきではないというアルファの本能のように、ジョセフの体は本人の意志に関わりなく抵抗する。

「……あ、っ待って……ん、今、やってる……」

 ジョセフは自分の体の力を抜こうと必死だった。しかし力の抜き方など、彼の人生で学ぶ機会などなかったに違いない。彼の体は強張ったまま困惑している。

「……いい、俺に任せろ。お前はそのまま、待て」

 命令する。そしてその困惑する瞳を覗き込むと、ジョセフは安心したかのように、ホッと息をついて目を閉じた。それはあまりにも無防備だった。
 シーザーはサイドテーブルの引き出しから潤滑油を取り出し、ジョセフの体に垂らした。指に何度もそれを絡ませながら、丁寧にその小さな入り口を開いていく。

 ふと、ジョセフを抱いたあの夜が脳裏をよぎる。あのときは、観察し、計算し、支配するための行為だった。どこまで触れればどんな反応が返るのか。どこまで侵略すれば支配できるのか、それを測るための夜。
 しかし今回は違う。シーザーはただジョセフを見つめる。触れて、反応を確かめ、そこから何かを引き出そうとはしない。相手の呼吸、わずかな体重移動、肩の緊張。そうしたものを、そのまま受け取る。
 ジョセフは、最初こそ身体をこわばらせていたが、やがて少しずつ力を抜いていった。柔らかく解けた体を前にした時、どうしようもなく欲が溢れた。シーザーは衝動的に自分の雄をジョセフの中にねじこんだ。腰の動きに合わせて、呼吸が重なっていく。その過程が思っていた以上に生々しく、率直だった。

「……っあ、はぁ、シーザー!……シーザーっ……」

 腰を進めるだけで、ジョセフは甘く何度も名前を呼ぶ。息遣いには、隠しきれない感情が混じる。期待、不安、安堵、そして、言葉にならない信頼。
 シーザーは、そのすべてに圧倒されながら、気づけばジョセフから目が離せなくなっていた。考えるより先に、身体が動き、身体が応える。

――夢中になる、というのはこういうことなのか

 その感覚は、シーザーの人生ではほとんど馴染みのないものだった。誰かを操作することはあっても、誰かに没頭することはなかった。だが今は違う。ジョセフという一人の人間の反応をただ知りたい。感じたい。
 気が付けば、がむしゃらに腰を動かしていた。その度にジョセフの理性からこぼれ落ちた鳴き声が、壁に何度も反射する。それは不思議と甘く、儚く、愛おしかった。
 目を閉じると、彼の指先が縋り付くように腕を掴む。瞼を持ち上げると、溶けるような青がじっと視線に絡みつく。その狂おしさに、シーザーは思わず、愛を落とした。唇が溶け合い、熱が絡み、二つの体が一つになっていく。

「シーザー、好きっ、好きっ……」

 荒い呼吸の合間に、必死に訴える。何度も聞かされた言葉。

――俺も、好きだ

 頭の中でこだまする思いに、顔が熱くなる。自分がこの男を紛れもなく愛しているという事実に、胸の奥が甘く脈打つ。ジョセフの中が何度も熱く絡みつくたびに、感情の壁が崩れそうになる。
 一際、ジョセフの腰が強く跳ねると同時、目の前の雄が白濁を勢いよくこぼした。それは彫刻のように隆起する美しい筋肉を汚し、長く脈打ち続けている。ジョセフは恍惚とした様子で、濡れた唇を歪めた。

 目の前に広がる光景に、腹の底がどうしようもなく熱くなる。
 ジョセフが射精した。ただそれだけなのに。
 足をだらりと開いたまま、咥えた穴が小さく痙攣している。ピクリ、ピクリと筋肉が跳ねる感触、滴る汗、曖昧な表情、その全てが淫らだった。

「あ……」

 シーザーはジョセフの腰を掴んだ。力の抜けた体に欲を叩きつける。ジョセフは目を見開いて、赤い声を上げた。肌のぶつかる音、声にならない音がぐちゃぐちゃに混ざり合う。ジョセフはシーザーにしがみつき、足で宙を何度も蹴った。

「あっ、あっ、いっ、あああっ、シーザーぁ、あっ……あっ……」

 ジョセフのペニスから止めどなく白濁がこぼれ落ちる。それでもシーザーは動きを止めなかった。

「……っ、ジョセフ……っ……」

 感情が言葉の輪郭を作りかける。しかしその音は、ジョセフの唇に奪われた。
 甘えるようなキス、その呼吸の合間に、視線が絡まる。自分だけを必死に求め続ける色に、シーザーは思わず、欲望を彼の内に解き放った。

 
 
 

 二つの体がようやく離れる頃、静寂の中に、時間の輪郭が戻ってきた。
 すべてが終わったあと、部屋には重なった呼吸の余韻だけが残る。ジョセフはベッドに横になり、天井を見つめていた。その表情は、先ほどまでの緊張が抜け、どこか幼ささえ滲んでいる。額には、癖のある前髪がぺったりと張り付いていた。シーザーは思わず、その汗を拭ってやった。

「……大丈夫か?」

 まだ色の残る顔を覗き込むと、ジョセフは眉をひそめて照れくさそうな顔をした。

「……思ったより、凄かった……」

 正直な感想に、シーザーは思わず吹き出す。それにつられて、ジョセフも声を出して笑った。

 長い間張り詰めていた見えない糸が切れたみたいに、不思議な安堵がそこにはあった。それはとても曖昧で、柔らかいものに思えた。白と黒しか存在しない盤上の世界では、見えないものがあったのかもしれない。そう思った時、進み続ける電車から降りたかのような、なだらかな静けさを感じた。

 選んだのは、自分だ。

 そう自覚した瞬間、胸の奥に静かな重みが落ちる。
 それでも、悪くないと思えた。むしろ、この重さを、しばらく手放したくないと思っている自分に、シーザーは少しだけ驚いていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
>>次の話(第8話)