「暑い……さっさとしろ」
ジョセフの表情が、そこで初めて大きく揺れた。まるで理性の柵の向こうから、別の獣が顔を覗かせたようだった。彼はゆっくり手を伸ばし、シーザーの肩に触れる。たったそれだけで、シーザーの身体はびくりと震えた。触れ方は慎重なのに、そこにある力は明らかだった。大きな手。長い指。熱を持った掌。押さえつけられているわけではないのに、どこにも逃げられないと分かる触れ方。
それでもジョセフは、すぐには先へ進まなかった。乱れた襟元を見つめ、指先で布を辿り、まるで何かを惜しむように触れる。スーツは着たまま。その姿が彼の欲望をどの方向へ駆り立てているのか、シーザーは言葉にせずとも感じ取っていた。
社交の場で誰よりも鮮やかに立つアルファとしての残像。磨かれた顔、冷静な視線、完璧に整えられた外側。その像を、ジョセフは愛してきた。憧れ、眩しさに目を細め、それでもなお近づこうとしてきた。
そして今、その姿は熱に乱れている。
ジョセフという一人の男によって、仮面は欲望に溶けていく。
壊される、と思った。
その予感が、恐怖と同じ深さで甘かった。
「……早く、脱がせろよ」
牽制するように吐き出すと、ジョセフはかすかに首を振った。否定というより、拒みきれない執着の仕草だった。
「……やだ。このまま……する」
その短い言葉に、シーザーはぞくりとした。
普段なら自分が指示し、主導権を握るはずのやりとりなのに、その一言だけで、場の支配が確実に移り始めているのが分かる。それなのに嫌ではなかった。嫌ではないどころか、身体の奥の熱はますます甘く膨らんでいく。
ジョセフの指がシャツの上から肌を撫でる。筋肉の形を確かめるように、そこにある甘い場所を探すかのように。布越しだというのに、妙に指先が熱い。その動きは慈しみでも親愛でもない、もっと生々しい欲望に溢れていた。腕を捕まれ、シーツに二人分の体重が乗る。唇が首筋を吸い、シャツの表面を啄む。その動きはすぐに荒くなり、スーツの線を崩した。
「……っ、あ……あつい……ジョセフっ……」
シャツの袖を引っ張るが、ジョセフはまだ脱がそうとしない。代わりにズボンだけをずり下げ、シャツの裾を乱暴にまくりあげた。勢いよく飛び出した性器をジョセフは一度だけ撫でた後、露わになった腹筋に沿って、ゆっくりと舌を這わせていく。それだけで腹の奥深くがじんわりと熱で滲んでいくのを感じた。唇は下腹部を辿り、ペニスにキスを落とした。しかしそれ以上はくれない。甘い熱の気配だけを置いていく。ジョセフは何度も執拗なくらいに素肌を遠回しに愛撫しながら、何かを確認するように、何度も、うっとりと見おろした。彼の目に自分がどのように写っているのか、その瞳の色だけで分かる。彼の行動が、表情が、自分を鏡のように映しているような気がした。
「ジョセフっ……っもう、いいだろっ……」
理性が、ひどく中途半端な形で残っている。だから余計に苦しい。完全に本能に落ちてしまえば楽だったかもしれない。それなのにまだ “考えて” いる。この状況に意味をつけようとしている。これは選択だ。支配されたからではない。自分が決めたのだと、何度も胸の内で確かめている。そうしなければ、すぐに足場が崩れそうだった。
シーザーはジョセフの腕を掴み、再び早くしろと訴えるも、彼は愛撫をやめなかった。今度はペニスを、睾丸を、たっぷりと舐め、蕩けきった熱の入り口にもキスを落とす。初めから柔らかく解けているにも関わらず、彼は丁寧に舌を通わせていく。その度に思わず叫びそうになった。足でその顔を蹴り上げてやりたいのに、彼の舌が、指先が触れるだけで、四肢の力が抜け落ちていく。むしろもっと触れて欲しい、もっと欲しくて仕方ない。
――もっと強い熱を寄越せ!
もっと、もっと、早く、早く、早く!
早く挿れろ!
喉の奥で叫びそうになるが、理性が踏みとどまった。そして理性が顔を出すと、吹き出すような羞恥に襲われる。目の前の男と目が合う。蕩けた入り口に舌を這わせながら、じっとこちらを見つめている。彼は唇を離すと、足首を掴んで上から確認するように見下ろした。
見られている。このどうしようもない醜態を。そう思うと、体中から汗があふれた。シャツがはだけ、ズボンはどこかへ脱げていた。それなのに、ネクタイと上着は未だに汗と共に体にまとわりついている。
ジョセフはふと、何かを探るように引き出しへ手を伸ばし、見慣れない包みを取り出した。
アルファ専用避妊具(ヒート/ラット対応)
そんな文字が書かれたパッケージに、シーザーはかすれた笑いを漏らした。
「……随分と物々しいな。何だ、それ」
ジョセフはその声に、妙に驚いた顔をした。青い目が一度だけ瞬く。
「ヒート用のコンドームだけど…… 」
「へえ……」
ジョセフは袋を破り、自分のペニスにそれを取り付ける。その仕草が妙に生々しかった。避妊という言葉が、自分に向けられてるという事実に少しだけ脳が冷めていく。
「……あのさ、シーザー……」
「ん?」
「……もしかして……その……アルファとは初めて、なの?」
その問いを聞いた瞬間、シーザーの熱に別種の焦りと羞恥が混じった。
アルファとの経験。そんなもの、あるはずがなかった。アルファとオメガの行為がどういうものか、本当にどこまで知っているのかと問われれば、ほとんど何も知らなかった。
「……っ」
何かを弁解しようとして、息が詰まる。三年前まで自分はアルファだった。オメガとして誰かに抱かれる想像など、人生の設計に入ったことがない。事故のように変わり、事故のように生き延び、そしてあの事故のようなヒートが起きた。その間、何かを学ぼうとはしなかった。学ぶこと自体が屈辱だったからだ。
「……っ……少なくとも、俺はずっとアルファだったんだ」
何とか、言い捨てるように絞り出す。言い訳だと自分でも分かる。
「……そんな機会、あるわけない、だろ……」
その一言で、ジョセフの顔が変わった。
整えていたはずの理性に、亀裂が走るのが見えた。そこから何が覗いたのかを、シーザーは直感で理解してしまう。
欲望だ。
しかも、ただの欲望ではない。憧れの対象だったもの、美しいと思っていたもの、壊したくないと思っていたものが “自分にだけ” “初めて” 身体を開いている、その事実に酔うような、暴力的ですらある欲望。野生的な独占欲。
息が詰まった。
怖い、と思うより先に、身体がそれに応えていた。
ジョセフの指先が強くなるのが分かった。視線が深くなり、欲の気配が濃くなる。青い瞳の奥で、善良さも、ためらいも、長年培われた礼儀も、すべてが灼けて溶け始めていた。それでも彼は、最後のところで声を絞り出す。
「……俺は、シーザーが好きだ……っ」
低く、ほとんど自分に言い聞かせるような声だった。
「愛してる。本当だ」
その「本当だ」は、誰に向けた確認だったのだろう。
シーザーか、彼自身か。愛が先か、本能が先か。支配したいのか、ただ壊れたいのか。彼自身にも、もう境界は分からないのだろう。
ジョセフは欲に色付いた熱を、身体に割り入れた。しかしシーザーの体はなんの抵抗もなく、アルファの巨大な熱を食いつくように受け入れる。身体の中に質量が押し込まれるたびに、甘いものが脳に向かって走り抜ける。
「……う、あ……ああ……」
欲しかったものが与えられる喜びのように、身体は意思に関係なく、隅々にまで淡い快感を走らせる。ジョセフの熱が何度も体を行き来しているのが分かる。その長い指で太腿を掴み、じっとこちらを見つめている。
「……あっ、あっ、ん……んん、見る、なっ……!」
視線に耐えかねて、思わず顔を腕で覆い隠すが、ジョセフはすぐに腕を掴んでシーツに縫いとめる。
「……っ……あ、や、だっ……やめ……」
首を振り、腕に力を込めて抵抗するが、ピクリとも動かない。アルファの圧倒的な力に、オメガは成す術もない。
「シーザー、好きだっ」
荒い呼吸、獣のような腰の動きの狭間で、ジョセフは愛を何度も叫ぶ。その言葉を信じないのは容易い。本能に飲み込まれた理性など頼りない。だからこそ、その境界が分からなくなる瞬間を、シーザーは受け入れた。ここで起きることを、本能の暴走として片付けてしまったら、これまで積み上げてきたものが嘘になる。自分たちは対等であろうとし、選び合おうとし、そのうえで本能の前に立っている。その順番だけは守りたかった。だから、ジョセフの荒くなった呼吸も、強くなる手も、崩れていく理性も、「この男の真実」として見ていた。嫌悪ではなく、恐怖だけでもなく、胸が締めつけられるほどの切実さで。
目の前の青を見つめると、その青もこちらを見つめていた。
汗でめちゃくちゃになったスーツを、互いに脱ぎ捨てる。昼下がりの白い光の下に、アルファの巨体が現れた。その筋肉は彫刻のように美しく、熱に溢れていた。思わず腕を伸ばすと、ジョセフはすぐに腕を掴み、ゆっくりと抱きしめた。汗ばんだ熱い肌。その心地よさに、思わず目を閉じる。すると唇に淡い気配を感じた。再び瞼を開けると、先ほどの青がじっとこちらを見つめている。
「……キスする時は、目を閉じろ…………」
吐き捨て、目の前の唇に噛み付く。ジョセフはそれに応えるように腰の動きを深めた。理性を保つことが滑稽に思えてくるほどに、体の熱が肌を溶かしていく。巨大な肉を掴むたびに指先が汗で滑る。その度にジョセフは体を抱え直し、より深く、より熱く、体を重ねようとする。一人ではいられない、誰かがいないと生きられない、そんなことを突きつけるかのように、体は目の前の体を必死で求めている。ジョセフが自分を求めている動きが、表情が、どうしようもなく愛おしくてたまらない。
しばらくするとジョセフは腰を掴み直した。しっかりと固定し、動きをより激しく深めていく。彼の絶頂は近い。太い腰をくねらせる様は妙に生々しく動物的に見えた。腰が突き上がる度に、生ぬるい水音がこぼれ落ちる。何かがそこから溢れているのかもしれない。四肢には力が入らなかった。目の前の男に体を捧げるのが喜びかのように、ただ目の前の男だけを見つめた。もはや視線が絡むだけで、ペニスの奥が疼き、何かが溢れた。射精なのかは分からない、薄い快感が常に体の中で波打っている。ジョセフの動きが荒々しく、体に打ち込まれていくたびに、波は大きくうねっていく。彼の表情は少し刹那げだった。ジョセフは動きに合わせて声を漏らした。それはいつも彼を抱いている時に見せる音と同じだった。
「あっ、あ……ん、シーザー!……っん、あっ……あっ……」
腰を早めながら、ジョセフは無我夢中で喘いだ。それは少し滑稽で非常に無防備に見えた。あまりにも気持ち良さそうに顔を歪め、喘ぎ、腰をがむしゃらに振る男に、どうしようもない興奮を覚えずにはいられない。激しい律動に、甘い痺れが腹から何度も突き上がる。快感の波が白濁を何度も押し出し、脳が白く溶ける。
「……あ、あっ……ん、あっ あ……」
思わず喘ぐと、その音はジョセフの声と合わさって甘く鼓膜を揺らした。二つの男の声が、部屋に反射し絡み合う。音が響くたびに、どうしようもなく恥ずかしいのに、声が溢れるのを止められない。
「……あっ、…あああ、っ……!」
長い絶頂。体が天に向かって反る。その先にいる男に目を向けると、しっとりと熱い視線が絡んだ。そしてひときわ顔を歪ませ、恍惚の表情を浮かべたかと思うと、ゆっくりと静止した。
ぽたりと、汗が一粒落ちる。
男は雨に打たれたかのように、汗だくだった。ビルに反射した光が、カーテンの隙間から肌を照らす。しばらく、ただ二つの呼吸の音だけがした。
シーザーは浅く息をしながら、これで熱が下がるのだろうと、どこか安堵した。
おそらくヒートは終わりだ。終わったのなら、水を飲んで、窓を開けて、呼吸を整えれば、また少しは理性的な人間に戻れるはずだ。
そう思って身を引こうとした瞬間、ジョセフの腕が離れないことに気がつく。
それは抱きしめているというより、身体そのものが拒んでいるような感覚だった。
「……おい」
苛立ちとも戸惑いともつかない声が出る。ジョセフは顔をしかめ、ひどく気まずそうに目を逸らした。赤くなった耳、汗ばんだ額、乱れた呼吸。こんなふうに狼狽する彼を見るのは珍しかった。
「ごめん」
かすれた声。
「無理……まだ、離れ、られない……」
何を言われているのか、最初は分からなかった。身体の奥にはまだ熱が残っている。自分だけではなく、ジョセフにも収まりきらない衝動があるように見えた。それが、ただの余韻ではないことを、彼の狼狽が物語っていた。
「何してる。離せよ」
怒鳴るように言うと、ジョセフはますます困った顔になった。
「ごめん……ほんとに、無理なんだ」
その声があまりにも真剣で、あまりにも恥ずかしそうで、シーザーはそこでようやく悟る。これは意志ではない。身体の、もっと原始的なところで起きている現象なのだと。
ジョセフのペニスは抜けなかった。それは射精を終えて鎮まるどころか、むしろ更に張り詰めている。どこかで聞いたことがある。アルファとオメガのそれは、犬や狼の生殖に似ていると。
特定の相手を離したくないという、獣じみた本能。理性的であることを当然とされてきたアルファにとっては、ほとんど屈辱に近い衝動だろう。だからこそ、ジョセフはあんな顔をしている。謝っている。
シーザーは一度目を閉じた。怒鳴りたい気持ちはあった。腹立たしさもあった。だが、それ以上に、目の前の男が自分の本能に狼狽しながら、それでもこちらを傷つけまいとしていることが分かってしまった。
「……謝るな」
喉の奥がまだ熱いまま、そう言う。ジョセフが息を呑むのが分かった。
「どうすれば抜ける?」
「わかんない……気がすめば……たぶん……」
その瞬間、二人の間に残っていた最後の羞恥が、少しだけ形を変えた。恥は、隠すべきものではなく、共有されるべきものになった。みっともなさも、獣じみた衝動も、全部見せたうえでなお、ここにいていいのだと、少しだけ思えたのかもしれない。
結局熱はなかなか終わらなかった。むしろ時間の感覚は、そこからが長く、曖昧になった。しばらく、二人はただ抱き合っていた。その時間はどこか歯痒く、気恥ずかしかった。時間を置いて何度か抜こうと試みるも、ジョセフのペニスは途中で張り詰めて動かない。むしろ引き抜こうとすればするほど、さらに大きく膨らむ。
ジョセフの顔は真っ赤になっていた。むしろ今までのどんな行為よりも、今が一番恥ずかしいといった顔で。その様子が滑稽で、妙に愛らしく思えた。
「本当に、抜けるんだよな?」
「……うん、たぶん……」
「多分じゃ困る」
茶化しながら言うと、ジョセフは眉を潜めて腰を少しずつ動かした。その微妙な摩擦に体の芯が僅かに疼く。ジョセフはそれに気がついたのか、腰をゆっくりと回し始める。
「おい」
慌てて腰を掴むが、ジョセフは動きをやめなかった。むしろ彼の瞳は新しい熱を浮かべている。
「おい、あんまり、動くな……っ……」
張り詰めたペニスの質量が増しているのがわかる。あまりにもピッタリと膨らんだそれが動くたびに、感じたこともない深い熱が、体の奥から沸き立つのを感じた。
「ねぇシーザー、このまま……する」
「は? ふざけるな! さっさと、抜け、このっスカタン!」
腕をつかみ、足で脇腹を蹴り上げるも、ジョセフは腰の動きを再開させる。それだけで筋肉が甘い痺れに緩んでいく。
「あ、あ…っ、くそっ、ば、か……動くなっ……!」
動く勢いでなんとか抜けないかと腰を引くも、その度にペニスが張り詰める。むしろ絶対に離さないと言わんばかりのその執拗さに、シーザーは眩暈を覚えた。抜こうとすればするほど、ペニスは内側を締め付け、甘い快感を走らせる。
「……あ、なん、これ……んっ…あ、あっ……」
刺激に呼応するように、内側は濡れはじめ、ペニスの奥に熱が集まり始める。ジョセフの動きに合わせて、新しい熱がじんじんと生まれ始めていく。ジョセフの目は純朴な欲望に溢れていた。足を抱えて腰を揺り動かしたり、後ろから抱きしめるように腰を動かしたり、忙しない。彼なりに抜く方法を考えているのか、それともただ体位を変えているだけなのか、もはやよく分からなかった。ただ彼のペニスは抜けることなく、内側で熱を産み続けた。シーザーはただ迫り来る熱を受け止めることしかできないまま、甘いの波を漂うだけだった。
光はまだ窓辺にあったはずなのに、どこからどこまでが午後で、どこからが夕方だったのか分からなくなる。熱に押し流され、息を整え、また押し流される。二人の間には何度も理性が顔を出し、そのたびに本能が飲み込んだ。羞恥やプライドと呼ばれるものは、じわじわと意味を失っていった。
「ジョ、セフ……」
キスの合間に名を呼んでみる。ジョセフは「ん」と曖昧に反応するだけで、キスに酔いしれている。息をつくと舌を絡ませ、腰を緩く波打たせ、指を何度も握り直す。ジョセフがただ動くだけで、ペニスから白い蜜が溢れる。
「……う、あ……もう、動くな……」
「ん、でも……きもちい……」
浅い絶頂の波に飲まれながら、ジョセフが何度達したのかは分からない。
どれだけ抱き合っても、どこかが足りない。
どれだけ深く呼吸しても、まだ相手の匂いが欲しい。
見つめるだけで胸が痛くなるほど愛おしいのに、それでもなお、自分の内側には奪いたい衝動が残っている。
愛と支配欲は、別のものだと思っていた。理性の側に立つ愛は、相手を尊重し、待ち、選ばせるものだと。だが本能の底にある愛は違う。相手を壊したいわけではない。なのに、誰にも渡したくない。自分の匂いの中に閉じ込めたい。何も考えられなくなるほど、自分だけを求めさせたい。その凶暴さを、理性的な世界では愛と呼ばないのかもしれない。けれど本能の世界では、それもまた紛れもなく愛のひとつだった。
抱き合ってどれほどの時間が経ったのか分からない。ただ光の色だけが変わっていく。白かった午後が、やがて琥珀色を帯び、薄い夕闇に沈んでいく。カーテンの隙間の線が床の上を移動し、消え、代わりに室内のランプがぼんやりと二人を照らす。そのたびに、肌の色も、瞳の色も、別のものに見えた。ジョセフの青は夜に近づくほど濃くなり、シーザーの視界の端で、ほとんど黒にも見える瞬間もあった。
もはや世界の境界線すらなくなっているように思えた。
「……は、あ……も……おかしく、なる……」
「……ん、シーザー……へーき?」
「平気では……ない、な……」
体がずっと鋭敏になっている。僅かに触れる皮膚も、ただの溜め息も、彼という存在全てが体を甘くしていく。それは永遠に終わらない熱みたいで、気が狂いそうだった。薄い絶頂の波の満ち引きが、浜辺で足を掴むみたいに、いつまでも終わることがない。溶け合う場所に触れるたびに、内側からまた新しい蜜が滲む。
「あ、ああ、んっ、も……抜け、よ……っ…」
必死に首を振ると、ジョセフは後ろから強く抱きしめた。体の外側も内側もピッタリと寄り沿っている。その境界はただ熱いばかりで、もう本当に溶け合ってしまったのかもしれない。
シーザーは、内側の熱のうねりを感じながら解放を懇願する。ジョセフは「うん」「うん」と言うばかりで、熱だけが走り続ける。その合間に、ふと熱い唇がうなじに触れた。
シーザーは、反射的に身を強張らせる。
そこだけは、意味が違う。
「……っ、やめろっ……!」
荒く息をしながら言うと、ジョセフはすぐに唇を離した。
オメガの身体にとって、うなじはただの皮膚ではない。番を結ぶという、一線のための場所だ。そこに刻まれるものは快楽ではなく、契約であり、帰属であり、世界そのものの書き換えだ。ヒートの熱に浮かされていても、その事実だけは骨の深いところで分かっていた。
「うん。大丈夫。今は、噛まない……」
その言葉に、残っていた理性がかろうじてしがみつく。
今は、
噛まない。
それは「いずれ」を含む言葉ではなかったし、誓いでもなかった。ただ、境界線をここに置くという意思表示だった。境界を知っていて、その上で越えないと告げること。それだけで、シーザーはひどく救われた。
もう、身体は番になりたがっている。この長い熱はその証拠だと思った。熱はそこまで求めている。だが二人は、わずかに残った理性で、それを止めた。
止めたというより、まだ保留にしているのだろう。番になるかどうかは、本能だけで決めることではない。愛していることと、番になることは、同じではない。
その事実を、二人ともこの熱のなかでなお失わずにいた。だからこそ、その寸止めのような境界は、かえって眩暈がするほど甘かった。なれないからこそ、なりかけている錯覚が、深いところまで二人を揺らす。うなじに触れる息ひとつで、身体が勝手に反応する。拒みたいのに、拒みきれない。怖いのに、逃げたくない。その矛盾が、シーザーの理性を最後のところで引き裂いていく。
「はぁ、あ、ああ、ジョ、セフ……っ…」
ジョセフは執拗にうなじにキスを降らせた。何度も甘噛みし、啄み、舌を這わせて、何度も何度も。獣が骨をしゃぶるみたいに、犬がおもちゃを離さないみたいに、壊れないように、でも、執拗に首の周りを甘く噛み続ける。
「……ああ、っあ、もう、あっ……ああ……あっ……」
シーザーは喉がはち切れるほど叫んだ。頭の中の砦が崩落していく。シーツをめちゃくちゃに引き裂きながら、ただがむしゃらに体をばたつかせた。
それでもジョセフは体を離さなかった。うなじにキスをしたまま、腰を深く突き続ける。その甘さに、シーザーの視界は滲み、頬に熱いものが伝った。意味にならない音をただ口から溢していた。熱はもう沸騰し切っている。熱は頭の先を突き抜け、真っ白に弾け飛んだ。
絶頂、恍惚、そんな言葉で言い表せるものではない。五感の全てが溶けていた。色も温度もわからない。
ただどうしようもなく、愛おしい気持ちだけが、ここにあった。
しばらくすると、熱はようやく輪郭を取り戻し始めた。
激しかった波が少しずつ遠のき、代わりに、深い倦怠と静かな充足が残る。汗ばんだ肌に夜の空気が触れ、初めて自分がどれだけ長いあいだ呼吸を忘れていたかに気づく。
窓の外では、いつの間にか街の明かりがはっきりとしていた。遠くにサイレンが鳴り、セントラルパークの闇がガラス越しに沈んでいる。
シーザーはゆっくりと目を開けた。ジョセフはすぐ近くにいた。髪は乱れ、目は赤く、疲れ切っているのに、まだこちらを見ている。その顔は立派なアルファのそれではなかった。良家の名を背負う完璧な紳士でもなかった。もっと剥き出しで、もっと不格好で、驚くほど正直な、一人の男の顔だった。
その顔を見た瞬間、シーザーはようやく理解する。
自分が恐れていたのは、支配されることではない。
誰かにここまで見られることだったのだ。
本能に屈した自分を、理性を失った自分を、みっともなく愛を欲しがる自分を、丸ごと見られること。
そして同じだけ、自分もまた、ジョセフを見てしまった。理性に誇りを持ち、支配を嫌悪し、それでも本能の前では獣のように誰かを求めてしまう男。その矛盾も、その羞恥も、その必死さも。
もう、前の場所には戻れないと、シーザーは思った。
目の前の男に触れてみる。青い瞳が、静かに揺れた。
魂が剥き出しになるとは、こういうことなのかもしれない、とシーザーは遅れて思った。
美しいことでも、崇高なことでもない。もっと汗ばんでいて、情けなくて、獣じみていて、なのに最後の最後で、人間の選択だけが残る。
ジョセフの指が、壊れ物に触れるみたいに、そっとシーザーの頬に触れた。
その温度を感じながら、シーザーはようやく目を閉じた。
熱はもう去っている。
だが、二人のあいだに残ったものは、発情よりもずっと厄介で、ずっと深いもののように思えた。
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