ジョースターさんが、好きだ。
そんな言葉を鮮明に浮かべた時、その響きに思わず顔が熱くなった。
そんなはずはない。ただの気のせいだ。勘違いだ。そう思おうとしても戻れないことは、たかだか20年の人生でも嫌というほど分かる。この感情には紛れもない、素朴な恋の匂いがした。
でも原因はすべてあのジョセフ・ジョースターという男のせいだ。彼はおそらく、シーザーという男を愛している。あの視線、あの声色、あの指先。自分に向かう全ての感情が、儚くて、淡い。切ないほどに恋焦がれる、まるで少年のように純朴な気配だった。
だからといって、自分が彼に恋をする義理はない。でも、彼の視線の奥にある古い熱を垣間見た時、何かが弾けてしまったのだ。
なんにせよ、理屈なんてどうだっていい。こねくり回せばいくらでも言い訳はできる。ただこの胸を締めつける熱だけは、どんなに言葉を並べても溶かすことはできそうになかった。
そしてあの日から、ジョセフは店を訪れなくなった。毎朝かかさず、アメリカーノをロングブラックと律儀に注文するあの男の日課。何を思ったのか、彼はやめてしまったのだ。
一日、また一日と、彼が来ない朝は、空虚でしかなかった。このまま会えないのではないかと思うと、胸が凍るように痛んだ。そしてその現実を受け入れることなど、まるで出来る気がしなかった。
Winter Rose
考えてみると、ジョセフ・ジョースターについて何も知らない。
彼はふらりとカフェに現れるだけで、こちらから会いに行くことはできない。彼が訪れるのを待つことしかできないのだ。
唯一知っている彼の情報は、一枚の名刺に走り書きされた彼の電話番号。会社のオフィスにあるであろうその固定電話だけが、こちらから彼に手を伸ばせる唯一の方法だった。しかしその手を使いたくない。自分はこんなにも会いたいのに、彼は平気なのだろうか。彼の方こそ恋しくなって、いそいそとカフェに現れるべきなのに。こちらから電話をかけるなんて、負けを認めるみたいで嫌だった。
ジョースターさんが、好きだ。
その言葉を心の中でなぞるたび、胸の奥がひどく静かになる。熱を帯びるどころか、むしろ冷えていく。自分で自分の気持ちに名前をつけてしまうことが、こんなにも慎重な行為だとは思わなかった。言葉にすれば、壊れてしまいそうで、壊れないように扱おうとするほど、その形がはっきりしてしまう。
彼が店に来なくなってから、もう2週間が経とうとしている。時間の流れが妙に歪んだ。朝は変わらずやってくるし、豆も挽くし、ミルクも泡立てる。客もいる。なのに、毎朝決まった時間に鳴っていたはずのドアベルの音だけが、どこにも落ちてこない。音がしないことに、こんなにも耳を澄ますことになるとは思わなかった。
名刺は、エプロンの内ポケットに入れたままだ。紙は少し角が丸くなって、インクの数字も指先に馴染んでいる。電話番号を覚えてしまうほど眺めたくせに、かける勇気は一度も持てなかった。電話をかけるという行為は、あまりにも直接的だ。相手の時間を奪い、声を呼び出し、用件を名乗らなければならない。そんなことをする理由を、どうしても見つけられなかった。
彼は平気なのだろうか。何の未練も感じていないのだろうか。そう思おうとすると、胸が少し楽になる。でも同時に、彼の視線や声色が、ただの勘違いだったという結論に行き着いてしまう。それはそれで、ひどく寂しいものだった。
冬のニューヨークは、夕方になると街の輪郭が急に曖昧になる。四時を過ぎる頃には、もう影が長く伸び、建物の隙間に冷たい青が溜まり始める。今日は一段と青が冷たく、胸の奥まで冷え込んでいるような気がした。閉店間際の店の窓に灯りを入れると、外の世界と内側の境界が、ガラス一枚で分かたれているのがよく分かる。
使わない椅子を一つずつ裏返し、カウンターを拭きながら、ヨシュアは何度も入口の方を見た。彼が来る理由はもうない。それでも、視線だけが勝手にそこへ向かってしまうのだった。
Part.1 前編
なんとなくその日は、思い切って店を抜け出した。なんとなくなんて言っても、その理由は明白だった。
裏口から出ると、空気が一段と冷たい。吐く息が白く、街灯の下でゆっくり溶けていく。通りの向こうに、オリーブグリーンの電話ボックスが見えた。ガラスに反射した灯りが、まるで中に何かを閉じ込めているみたいだった。
中に入ると、外の音が少し遠くなる。受話器は重く、黒いコードが指に絡む。硬貨を入れる穴を見つめながら、ヨシュアは動けなくなった。今かければ声が聞ける。聞いて、どうするのかは分からない。ただ、聞いてしまえば、もう戻れない気がした。
ふと、ガラス越しに店の方を見る。
まだ灯りはついている。白い光の中に、見慣れたカウンターと、磨いたばかりのカップが並んでいる。その手前、店の外側に人影があった。
コートの襟を立て、じっと中を見つめている。
ドアを開けるでもなく、去るでもなく、ただそこに立っているだけの男の影。街灯の光が、その横顔をゆっくりと掬い上げる。
その輪郭に、心臓がひとつ、強く鳴った。
その男は、ジョセフだったのだ。
なぜ、ここにいるのか。どうして、この時間に。
考えようとするほど、答えは遠ざかる。彼はただ、店の灯りだけを見ている。
それでも、ヨシュアは受話器を持ったまま、動けなかった。呼んでいない。呼ぶつもりだっただけだ。電話番号を回していない以上、何も起きていないはずなのに、胸の奥で何かが静かに音を立てて崩れていく。これは偶然だ。そう言い聞かせても、視界の端に立つ彼の姿に、運命のような強い引力を感じさせる。
ヨシュアは受話器を戻した。硬貨を握りしめたままドアを押し開け、気づいた時にはもう走り出していた。
「……ジョースターさん!!」
呼び止める声が、少しだけ上ずった。
ジョセフは、はっきりと驚いた様子で振り返る。
「……ヨシュア?」
一瞬、言葉に詰まったかのように、その目は大きく見開かれた。
「いつから……そこに?」
それは問いというより、思わず零れた言葉だった。
「今です。ちょうど……偶然、見かけて」
その言葉に、ジョセフは短くほっと息を吐いた。白い息が街灯の下で柔らかくほどける。
「……そうか」
「お久しぶりです」
そう言うと、ようやくいつもの調子が戻ってきた。
「ずっといらっしゃらないから、ちょっと心配したんですよ」
言ってから、少し間が空く。ジョセフは、ちらりと店の方を見た。
「……忙しくてな」
「そうですよね……」
「それで、そろそろ店じまいだろ?」
迷いのない問いだった。まるで、最初から答えが分かっていたみたいに。その響きに小さく引っかかりながら、ヨシュアは言葉を探した。
「はい。でも、最近……来られてないし。せっかくだし、何か飲んでいきますか?」
言ってから少し後悔した。責めるつもりはなかった。ただ事実を口にしただけなのに、その言葉は思いのほか、強く響いた気がした。
ジョセフは、ほんのわずかに眉を上げた。それは驚きというより、観察に近い反応だった。
「いや、いいよ」
その返答に、胸の奥がかすかに痛んだ。
「……でも、すぐ、終わるので……」
ヨシュアはそう言ってから、あまりにも感情が抑えきれていないことを自覚した。それでも止めることは出来なかった。
「一杯だけ!ほんとに、それだけ、です……」
ジョセフは答えなかった。ただ視線を落とし、もう一度だけ店の灯りを見た。
「……邪魔じゃないか?」
そう言いながらも、足は動いていなかった。
「大丈夫です。全然、大丈夫です……」
嘘ではなかった。カウンターの上はほとんど片づいていて、あとは床を拭いて、シャッターを下ろすだけ。一杯のコーヒーを淹れることなど何も問題ない。
少しの沈黙のあと、ジョセフは短く息を吐いて肩をすくめた。
「じゃあ……少しだけ」
その言葉に、ヨシュアは頷く前にドアを開けていた。店の中は、外よりもいくらか暖かかった。さっきまで人のいた気配が、まだ空気の中に残っている。昼間のざわめきが引いたあとの空気は、音を立てずに沈んでいる。
ヨシュアはマシンのスイッチを入れ、豆を挽いた。その間、ジョセフはカウンターの前に立ったまま、窓の外を見ていた。こちらを気にする様子はない。視線は、夕闇に溶けかけた通りの向こう、車の灯りや、歩いていく人影へ向けられている。
「いつもの……で、いいですか」
「ああ」
短い返事。それきり、ジョセフは何も言わなかった。
いつものコーヒー、ロングブラックを差し出すと、彼は礼を言ってカップを手に取った。一口、ゆっくりと口をつける。その間も、視線は窓の外に置かれたままだった。ジョセフは一口飲み、何も言わなかった。その沈黙が、評価なのか、考え事なのか、ヨシュアには分からない。でも不思議と、嫌な沈黙ではなかった。気まずさも、焦りも、思ったほど胸に湧いてこない。
ヨシュアはカウンターの内側に戻り、残っていた皿やカップを片づけ始めた。椅子を上げ、床を拭く。作業の音が小さく店に残る。ヨシュアは何も言わず、手を動かし続けた。この時間が、少しでも長く続けばいいと思った。
振り返ると、ジョセフはまだそこにいる。帰るそぶりも見せず、カップを両手で包んだまま、ぼんやりと外を見ている。それだけで十分だった。
「……終わりました」
ヨシュアが言うと、ジョセフはゆっくりと振り返った。
「そうか」
その時初めて、視線が交わった気がした。冬の湖みたいに透き通った色に、ヨシュアの胸は、雫を落としたみたいにピンと跳ねた。
外へ出ると、空気の冷たさが頬を刺した。店の中で薄く残っていた温度が、ドアの外で一瞬にして切り取られる。夜の冷気は、冬の匂いというより、金属の匂いに近い。息を吐くと白くほどけ、それが街灯の光に照らされて、すぐに闇に溶けた。
通りにはまだ人がいた。雪はすっかり降り止んでいるのに、歩道の端には薄い白が残り、踏み固められて灰色に濁っている。タイヤが巻き上げた泥が、その上に細い線を引き、どこか遠い国の地図みたいに見えた。靴底が、ざくり、と鈍い音を立てる。
ジョセフは何も言わずに歩いていた。コートの襟を少し立てたまま、風の具合を確かめるように顎を引いている。その横顔は、さっき店の灯りの中で見えたものよりも、ずっと曖昧だった。
並んで歩いているのに、二人の間には空気が一枚挟まっているような距離があった。近づけば触れられる。けれど、触れない。触れないことが、約束みたいに確かだった。その距離を、ヨシュアは自分で選んでいるつもりでいた。けれど、歩くたびに、そのつもりは少しずつ薄くなる。選んだのではなく、ただそうなっているだけ。
そんなふうにしか、この街では歩けないのかもしれない。
ショーウィンドウのガラスが、通りの光を映している。店内に並ぶコートや手袋、宝石のように並んだ菓子箱の上に、通りを歩く人々の影が重なった。ヨシュアはふと、そのガラスに映る自分たちを見た。
二人は並んでいるようで、少しずれている。肩は触れていない。腕の角度が違う。足並みは揃っているのに、どこか別々の方向へ向かっているようにも見える。ガラスの中の二人は、他人に見せるつもりのない顔をしていた。街に紛れるつもりでいて、紛れきれていない顔。
そのすぐ横を、男女の二人が通り過ぎた。男が女の肩に手を回し、女は笑いながら身を寄せている。別の夫婦らしい二人は、同じポケットの中で手を繋ぎ、何でもない話をしている。笑い声が、乾いた空気の中で軽く跳ねた。
あの距離は、許されている距離だ。誰も咎めない距離。触れることが当たり前で、言い訳のいらない距離。
羨ましいと思った。
その瞬間、ヨシュアは自分に驚いた。
触れたいわけじゃない。そういうことではない。けれど、ああやって何の抵抗もなく近づけることが、あまりにも自然に見えて羨ましかったのだ。笑いながら肩を寄せることが、世界の側から用意されている感じがしたのだ。
自分たちには、それが用意されていない。
その事実が、胸の奥で静かに広がった。痛い、というほど強くはない。でも冷たい。雪が残る歩道みたいに、どこまでも薄く、長く残る冷たさだった。
ジョセフは、まだこちらに目を向けない。街の先、灯りの並び、行き交う人影の間に視線を置いている。この人は、こうして街を見ている時、何を考えているのだろう。あるいは何も考えていないのだろうか。ただ、寒さと灯りの中に身を置いているだけなのだろうか。
それでも、隣にいる。
そのことが、妙に嬉しかった。嬉しいなんて言葉を使ってしまえば軽くなる。けれど軽くなってもいいと思えるほど、ヨシュアはその事実に救われていた。帰ってしまわない。立ち去らない。少し前まで、ドアベルの鳴らない朝に耳を澄ませていた自分が、いまは隣の足音を聞いている。それだけで、胸のどこかが温かくなる。
グランドセントラルに近づくにつれ、人の流れが太くなった。雪を踏む音は減り、代わりに靴が石を叩く乾いた音、車のクラクション、遠くの列車のような低い唸りが重なる。入口の前では、物乞いが扉を開けたまま「小銭を」と同じリズムで繰り返し、人々は何食わぬ顔でその横をすり抜けていく。
駅の中へ入った瞬間、空気の質が変わった。外の冷たさが薄まり、代わりに人の熱と、石と、古い鉄の匂いが鼻の奥に残る。天井は高く、薄い色が広がっている。暗い青の向こうに、金の線が走り、そこに星が散っているように見えた。音が、上の方で反響する。足音も話し声も、少し遅れて戻ってくる。
ヨシュアは、ここへ来るたびに少し怖くなる。広すぎる空間は、気持ちを小さくする。人の波は、誰かの肩にぶつかっても謝ることさえ難しいほど速い。けれど今日は、その広さが不思議とありがたかった。外の暗がりよりも、ここには灯りがある。自分たちがどこにいるのか分かる。迷子になっても、見上げれば天井がある。
ジョセフは、流れに合わせて歩いていた。人混みの中でも無理に肩を張らない。焦りもしない。すり抜けるというより、波の一部になる歩き方だ。ヨシュアは、そういう歩き方を真似できないと思った。自分はいつも、どこかで余計な力が入る。ぶつからないように、とか、邪魔にならないように、とか。そういう小さな怯えが、歩き方に出る。
二人はなんとなく地下鉄の方へ足を向けた。そうするのが自然だからだ。帰るという流れに身を任せるのは簡単だった。駅は帰る場所へつながっている。列車に乗れば、今日の出来事は、また別の日の出来事になる。
けれど、その「自然」を続けてしまうのが怖かった。
時計台の前に差しかかった時、ジョセフがふと足を止めた。人の流れはそのまま進み、二人だけが、その広い空間の中で一瞬取り残される。ヨシュアは遅れて立ち止まり、危うく肩が誰かに触れそうになった。
上を見上げると、時計の文字盤が光っていた。針の位置が、何かを告げるというより、ただ時間がそこにあることを示している。ここにはいつでも時間がある。待つ人も、待たせる人も、同じ空間にいる。
ジョセフは、時計を見ているのか、見ていないのか分からない顔をしていた。少しだけ目線を上に置き、しかし焦点は合っていない。何かを決める前の、短い沈黙。
「……たまには、食事でもどうかな」
人混みの中に落とすには、意外なくらい柔らかい声だった。大きくはない。けれど、反響する空間のせいで、その言葉だけが妙に遠くまで届く気がした。
「最近、あまり会ってなかったし」
続けて、ほんの少しだけ肩をすくめる。さっき店の外で見せた仕草と同じだ。軽く見せるための動き。軽くしないと、重さが露わになってしまいそうな振る舞い。
ヨシュアは、言葉がすぐに出なかった。驚いたのは誘われたことではない。誘われた言葉が、あまりにも穏やかだったことだ。ここにあるのは感情ではなく、理由だ。理由という形をした、手の差し伸べ方だ。
その穏やかさに、胸の奥が少しだけ寂しくなった。自分はこんなにも会いたかったのに、こんなにも待っていたのに。なのに、言えるのは「お久しぶりです」だけで、差し出せるのは「一杯だけ」で。口にできない言葉が、駅の天井のどこかに吸い上げられていく。
周りを歩く人々が目に入る。腕を組んでいる若い男女。肩を寄せ合って話している夫婦。何でもないように笑い、何でもないように触れている。二つの色が当たり前のように溶けている。人の多さの中で、その距離だけがやけに目立った。
あんなふうになりたい。
二人きりになりたい。
ふと、そう思ってしまった。
やましい意味ではない。ただ二人で話す場所がほしい。人の視線が薄いところで、声を落として、呼吸を整えて。誰かの笑い声や、肩がぶつかる心配のないところで。
この街ではそれが妙に難しい。二人でいても、いつも誰かが間に入ってくる。通りの灯り、窓の反射、人の流れ。世界が勝手に距離を決める。二人でいるはずなのに、二人だけにはさせてくれない。
ヨシュアは、そんなことを考えている自分に気づき、少しだけ恥ずかしくなった。子どもの頃なら、放課後に二人で歩けば済んだ。どこにいても二人きりになれた気がした。街は広く、場所は多いのに、今はどうしてか、二人のための場所がない。
ジョセフは、ヨシュアの返事を急かさなかった。
ただ、待っている。
時計台の下で、音が響き、人が流れ、天井が広がっているのに、その待ち方だけが静かだった。
ヨシュアは息を吸い、吐いた。息はここでは色が見えない。でも胸の中で、色がほどけていくのが分かった。
「……はい」
それは小さな声だった。それでも、断る声ではなかった。
ジョセフの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑ったというほどではない。ただ、固く結んでいた何かが、ほどける気配。
「それじゃあ行こうか」
そう言って、彼はまた歩き出す。人の流れに紛れながら、今度は少しだけ、ヨシュアの歩幅に合わせるように。
ヨシュアは、そのわずかな変化を、決して見逃さなかった。