Episode 1. Liar

 
 
 
 
 
 
 
 

―——— 愛を求めてニューヨークに移り住む者はいない

 誰かがそんなことを言っていた気がする。確かに、恋に落ち、結婚をし、家庭を築くためにニューヨークへ来る人間などいない。恋愛よりもキャリアを求め、夢を追い、自分自身の人生のためにここへ集まってくる。愛だとか恋だとかに真剣になっている時間があれば、ひとつでも仕事を終わらせた方がずっと将来のためになる。

「あなたは、誰とも違う夢を追っているの。私たちはキャリアを求めてここにいる」

 ああ、誰が言ったのか思い出した。彼女だ。この前別れた彼女じゃなくてその前の前の彼女。そしてその言葉はごもっともだった。概ね同意する。しかしそんな人間と付き合い続けていると、愛だとか恋だとかそういう繊細なものたちは、シャボン玉みたいにどこかへふわふわと飛び去ってしまう。そして何もかもがすぐ側にあるはずなのに、何も手に入れてないような気がしてくるのだ。こうなるともう駄目だ。大体ここまで来ると特に意味もなく相手に別れを切りだしたりする。これはこの街特有のそういう “病気” なんだ。

「私は誰よりも教育を真剣に受け止めているの。私たちには責任感があり、賢く、自信がある。結婚相手を選ぶ前に自分のことを真剣に考えたいのよ」
 美しく聡明で世界の全てを手に入れたかのような瞳で、彼女は摩天楼を見下ろしながらそう言った。

「私は自分が何者で、私自身がどこへ行くのか確認したいの」

 そんな言葉を言い残して、彼女は一人、部屋から出て行った。

 
 
 
 
 
 
 
 

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 ジョセフ・ジョーンズ、28歳。身長は無駄にでっかく6.4フィートもある。この都会を生きる上でその身体の大きさはあまり役に立たない。「大きいですね」「でかいね」「身長いくつ?」もう何十回何百回と同じことを言われている。つまり、いつも毎回同じ会話をしなくてはならないってことだ。このくだらない会話に人生の3%くらいの時間を費やしているんじゃないだろうか。そろそろいい加減に言われる人間の気持ちを考えて欲しい。どうして人間というものは背の高い人間に対しては無遠慮なのか。それなら小さい奴に「ちっちゃいね」、太った奴に「デブだね」と言っても良いということだろう? なぜそれは言っちゃいけないのに「でかいね」はいいのだろうか? 差別だ差別!

 そんなことを一日に一回くらいは考えながらジョセフはニューヨークの街を歩いていた。つまり、実にくだらないことを頭の中で考えては独り言を言っている、そんな人間だった。そして今ノマドのカフェに来ている。時間は午後2時20分。ジョセフはとある一人の男と待ち合わせをしていた。
 いくつものカフェが軒並ぶ中、指定されたカフェは適度な広さと洗練さのあるローカルチェーンのコーヒー店だった。28番ストリート駅から歩いてすぐなのも好感が持てる。おそらくその男は相手に配慮ができる “紳士” に違いない。そんな期待に胸を膨らませながらジョセフは約束の人物が登場するのを待った。予定よりいくらか早く着いてしまったジョセフは、先にドリップコーヒーを一つ注文し、道路がよく見える窓沿いのカウンター席に座った。
 ジョセフはアプリを開き、今日会う予定の男の顔をもう一度確認する。紳士的で優しい雰囲気の年上男性。どの写真にも手入れされた短い顎髭があり、身体にフィットしたオーダーメイドのスーツに身を包んでいる。そんな見た目の人物が現れたらすぐに声をかけよう。 ジョセフは胸をときめかせ、窓の外を眺めながら待った。しかし約束の時間を2分ほど過ぎたが、そんな紳士らしい男は見当たらない。扉が開く度にちらりと人物を目で追っているが、それらしき人はいなかった。また一人、颯爽と金髪の男が入ってくる。見るからにして派手な遊びをしていそうな男だった。ジョセフはすぐに彼から目を反らし、再び店内を見渡した。
「君がジョーンズかい?」
 しかしその金髪男に名指しで声をかけられた。
「ああ、ジョーンズだが。君は?」
 どう見ても今までに一度も会ったことのない男だった。
「俺はコッポラ。今日会う約束をしていた男さ」
「は?」
「そんな顔しないでくれよ。見た目と写真が違うなんて、マッチングの世界じゃよくある話だろ?」
「いや、違うどころの話じゃないぞ。全然別人じゃないか!」
 ジョセフは思わず声を上げて指を差した。
「そんなに驚くなよ。それとも、そのダンディな紳士がそんなにお好みだった?」
「少なくとも、お前みたいなちゃらちゃらした男よりはずっとな」
「まぁまぁせっかくなんだし、一杯くらいさ。少し話をしよう。話をして合わないならすぐ帰るからさ」
 ジョセフが反論を言う前にその金髪はカウンターでコーヒーを注文し始める。年齢も髪の色も、スーツの着こなしや雰囲気も、なに一つとしてマッチしない見知らぬ男の後ろ姿を、ジョセフはただ唖然と眺めることしか出来なかった。

 この出会いの経緯は、一週間ほど前にさかのぼる。少し分かりやすく説明するために念のため二週間程度さかのぼっておこう。
 時は2022年3月。まだ冬の寒さが残るヘルズキッチンのレストランでジョセフは一人考え事をしていた。何を考えていたかというと、

 ”俺は、本当はゲイなんじゃないだろうか”

 ―――ということだった。その考えに至るまで実に28年かかったわけだが、その考えはわりと突発的なものだった。恋に落ちるのに理由がないように、自分がゲイだと気がつくのにも理由はない。だぶん。
 今までに10人は越えるであろう数の女性と付き合ってきた。10人。それは28年の人生において可もなく不可もなくというところだろう。ジョセフとしては割と真面目にお付き合いしてきたつもりだった。いや、真面目なお付き合いだけに絞るなら3人くらいかもしれない。とにかくそれくらいはこの街で女性と交際してきたのだ。しかし結果的にいつも同じような別れ方をする。全ての女性が自分の家を“颯爽と”出て行く。本当に恐ろしいくらい全員だ。
 彼女たちの考えがどうであれ、正直ジョセフは女性を抱くということにあまり興味がなくなってきていた。だからって男を抱きたいとか、抱かれたいとか明確な意思があったわけではない。ただ少しばかり女性ノイローゼにでもなっていたのかもしれない。普通の男なら少しばかり恋を休んで、一人で過ごそうと考えるだろう。しかしジョセフはどういうわけか、男と交際してみたいと思い立ったのだった。誰でも良いわけではない。自分の直感で良いと思った男だ。そんな男に自分の人生をちょいとばかし打ち明けて、何かを切り抜けたかったのかもしれない。
 そう思い立ったのが二週間前。美味くも不味くないニューアメリカンのレストランで注文した料理をぼんやりと待っている時だった。ジョセフはその場ですぐに適当なアプリをダウンロードし、早速プロフィールを登録した。ちょうどその時、注文したフィレミニオンのステーキと山盛りのマッシュポテトがテーブルに並んだので、登録だけしてスマートフォンを上着のポケットにしまった。
 正直なところ、それから一週間くらいアプリの存在を忘れていた。そしてまた偶然にも地中海レストランで一人、料理を待っている時にあのアプリの存在を思い出したのだ。なんとなくアプリを開いて眺めていると、一人の紳士が目に止まった。黒髪で精悍な顔つきをした男らしい紳士だった。ジョセフの目に止まったその紳士は、友達やカジュアルな付き合いを求めていて、真剣交際は考えていないと書かれていた。ネコとタチの両方を受け入れているのも安心感があった。正直自分がどっちが良いかなんてまるで分からなかったし、その間口の広さは友人のような関係を望んでいるように感じられたからだ。しかしこれはあくまで同性愛を知らない素人の主観なので、もしそのアイデンティティの人間にその考えを伝えたら見当違いだと馬鹿にされるかもしれない。なんにせよ、ジョセフはその紳士の写真に一目惚れしたのだった。気取らない、自己顕示欲の少なそうな成熟した雰囲気でありながら、それでいてナチュラル。ファッションや仕草には行き届いた洗練さがある。ジョセフはこの人ならきっと丁寧に色々なことを教えてくれるんじゃないか、人生の助言を貰えるんじゃないか、などと根も葉もない期待を胸にLIKEを押した。そしてジョセフがLIKEをすると二人はその場でマッチング成立となった。どうやら向こうは既にジョセフにLIKEをしていたらしい。ジョセフは飛び跳ねるように喜んだ。

「それなのに……」

 目の前の金髪男をじろりと睨む。

「そんな怖い顔するなよ」
「なんで嘘の情報なんか載せた? 失礼じゃないか」
「失礼か…… 加工した嘘の写真を上げるのと、やってることは変わらないと思うけどな。とにかく俺はそれで相手を振り分けてるのさ。見た目とステータスだけで寄ってくる人間と、そうじゃない人間」
 目の前の男は悪びれる様子もなく、何か正論を語るかのような雰囲気で足を組んでいる。
「とにかくだ。俺の嘘が気に入らないなら、それでおしまい。少しでも気になったなら、そこからスタートすればいい。別におかしな話じゃないだろ?」
「お前はどこまで嘘なんだ?」
「それも、これから確認すればいい。面倒だと思うならそこで “おしまい” 」
「おしまい、か」
 騙された気分になっていたが、彼の言葉に少しばかり興味を持ったジョセフは、改めて男を見つめた。
「えっと、何て呼べばいい? コッポラだっけ?」
「うん。でもイーサンでいいよ」
「イーサンか。俺はジョセフだ」
「OK!ジョセフね」
 ジョセフが興味を示したのを察したイーサンは、身を乗り出してテーブルに置きっ放しにしていたカップを手に取った。ジョセフも少しぬるくなったコーヒーを一口飲んでからイーサンへの質問タイムを始めた。
「じゃあ改めて聞くよ。あのプロフィールは全部嘘だろうからな。俺はどんなつまらないヤツでも一つくらいは面白いものがあると思っているタイプの人間だ。もし一つも相手から面白みを見い出せないなら、それは俺の感性の不足だと思っている」
「いい考え方だね」
「それじゃ始めるぞ。イーサンはいくつ?」
「30」
「今求めてるのは、一時的な関係?真剣な交際?」
「時と場合による。でもほとんどがオケーショナルな関係だな」
「仕事は?」
「ファイナンス」
「どこ出身?」
「イタリアのジェノバ」
「イタリア? そんな感じはしないな」
「あんたが想像してるのは、アル・パチーノとかロバート・デニーロとか、そのへんだろ、どうせ」
「まぁそんなところだ」
「金髪のイタリア人は珍しいからな。俺は家族に北方系の人間が多いから。それにあんたが想像してるのは南イタリアの人間だ。俺はれっきとした北イタリアだ」
「何が違うんだ?」
 イーサンはにやりと口角を上げた。
「北の方が繊細」
「繊細なイタリア人なんて、面倒くさそうだな」
「そ。つまり俺は非常に面倒くさい男だ」
 イーサンは自嘲的に笑った。
「ジョセフ、俺も少し質問させてくれないか?」
「ああ、いいよ」
「ジョセフはアメリカ人?」
「アメリカ人という人種はいないらしいが、生まれも育ちもニューヨークだから、一応形式的にはアメリカ人だな」
「年齢は?」
「28。それ、プロフィールに書いてあるぞ」
「知ってる。でも本当かなと思って」
「嘘ではないけど。でも、そもそも俺がここで嘘をつかないとも限らないぞ、あんたみたいに」
「知ってる。嘘でも本当でもどっちでもいいから聞きたいだけ」
「ふーん」
 イーサンは一息置いて再びジョセフに問いかけた。
「タチ志望? ネコ志望?」
 ジョセフは質問の答えに迷った。
「……どっちでも」
「どっちでも?」
「ああ、というか…… どっちなのかよく分からない」
 ジョセフは少し口ごもった。
「男に会うのは初めてだから。……そういう話は初めにしておいた方がいいよな?」
「うん? まぁ、”どっちでも” 」
 イーサンは朝に食べたツナサンドの話をするくらいどうでもいいような様子だった。
「俺は言葉の通り、男とデーティングするのは初めてなんだ。色々あって、まぁ、とにかく女性ではなく男と会ってみたくなったんだ」
 ジョセフがカップを回しながらイーサンをちらりと見る。するとイーサンは指先でジョセフを手招きした。ジョセフは内緒話でもするのかと思い、イーサンに耳を近づけた。
「もしかして、彼女とアナルセックスに目覚めた?」
 ジョセフは思わず、耳打ちするイーサンをぎょっと睨んだ。
「違う! そんなわけないだろ!」
「そんなにムキにならなくても。これから “する” かもしれないのに」
 イーサンはくすくす笑っている。
「ジョセフは、女の子を抱くのに飽きちゃった?」
「わからない……」
「女の子から男に移るやつは大体2パターンかな。1つはアナルにハマって男とやってみたくなるやつ、2つ目は女を抱くことに疲れて男に抱かれてみたくなるやつ」
 イーサンは何かを知っているかのような口ぶりでジョセフを見つめた。
「つまりみんなネコ志望なんだよ」
「……そう、なのか?」
「そ。だからジョセフもたぶんきっとそうだよ。俺はどっちでも “イケる” からいいけど」
 ジョセフはその言葉にあまり同意できる気はしなかった。アナルなぞに興味はなかったし、男に抱かれたいという感情を持った覚えもない。どちらかと言えば、男を抱く方に興味があるかもしれない。イーサンの言葉を聞いてジョセフは改めて自分の嗜好についてぼんやりと考え始めた。
「さっきイーサンは自分で面倒くさい男だって言ってたけど、俺もたぶん、結構面倒くさい男だと思う」
 その言葉にイーサンは嬉しそうに笑った。
「それはちょうどいいな。で、面倒くさい者同士、これからどうする? 少しどこかへ出かける? それとも帰りたい?」
 その言葉に、ジョセフは目の前の男との会話を意外と楽しんでいる事に気がついた。
「出かけよう。そこのイータリーに行きたい。俺、イタリア人とイータリーに行ってみたかったんだ」
「なんで?」
「どれが “本物” か分かる」
 ジョセフはわざとらしいハンドサインで強調した。
「嘘をつくかもしれないぜ?」
「それでもいいさ。結局イータリーは、俺たちアメリカ人にとっちゃ全部美味いからな」
 イーサンはその言葉に楽しいものを見るような目をして笑った。

 
 
 
 
 
 
 
 
※イータリー(Eataly)….. ニューヨークおよびアメリカ各地にあるイタリア系食品店。イタリア本場の輸入物やその食材を使った様々なフードが楽しめる。ニューヨークにはノマドエリアとダウンタウンに店舗がある
 
 
 
 
 
 
 
 

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 結局あの日はイーサンという名の嘘つき男とイータリーへ買い物に行って、そのまま何事もなく解散となった。嘘つき男はどこまでが嘘で何が本当か終始分からなかったが、始めから嘘を嘘と認める姿勢には不思議と誠意さえ感じた。それに彼が選んだオリーブの前菜、ハムの燻製、フィットチーネのパスタ、そのどれもが絶品で、例えそれが全部嘘だったとしてもジョセフは満足だった。

 人は多かれ少なかれ罪にならない嘘をつく。正直今まで出会った人間たちの言葉のどこまでが嘘で、どこからが本当かなんて分からなかったし、そんなのが分かったところでどうでも良かった。社会を生きるというのは、罪のない嘘と付き合いながら適当な人間関係を築いていくことでもあるのだ。
 あれからイーサンとは時々連絡を取るくらいで、一週間ほど会うことはなかった。また会っても良いと思ってはいたが、なかなかきっかけが見つからないでいたのだ。
 アプリを開けば嘘か本当か分からない人間たちの名前やプロフィールがカルテみたいに同じ順番に並んでいて、似たりよったりな人間のピクセル画像が軒を連ねる。そんなものに好きか嫌いかだけで左右にスワイプするこの指先の動きすら、段々と汚らわしい物のように思えてくる。あれから何人かとマッチして適当にテキストのやりとりをしたが、結局会うには至らなかった。どうしてもイーサンの存在が頭の片隅にちらつくのだ。今日も適当に画面をスワイプしたものの、あまり気乗りせず、ジョセフは早々にアプリを閉じた。
 イーサンという一人の男と会ってみたが、自分は本当に男と恋愛がしたいのかまだよく分からないでいた。自分は気兼ねなく話せる友達のような存在が欲しかっただけかもしれない。イーサンのことは気にはなるが、その思いが恋なのか友愛のようなものなのかジョセフは判断出来ないでいた。

 ジョセフは自室の窓から夕闇に染まった摩天楼を見下ろす。地面はほとんど見えない。自分の足下にはただの虚無が広がっているように思えた。
 自分は一体何を探しているのだろう。誰を探しているのだろう。自分のこと以上に必死になれる誰か。世界の全てを敵に回しても守りたい誰か。そんなのは映画の世界だけに存在するものではないだろうか。本当は世界のどこにもそんな人間なんていなくて、結局は相手の中に、自分の探しものを見出さなくてはならないのかもしれない。
 愛だとか恋だとかを求めてニューヨークに住む者はいない。それでも生きていると、どこか寂しく、誰かが恋しいのだ。

 向かいのビルにチラホラと見える人影をぼんやりと眺めていると、ピピッ、ピピッという無機質な着信音が反芻した。スマートフォンの画面にはイーサンの文字が光っている。ジョセフはすぐに電話を取った。
「もしもし? イーサン?」
「やぁジョセフ、久しぶり。今暇?」
「どうしたんだい?」
「飲みに来ないか? 今ハドソンヤードいるんだ」
「ああ俺も、今ハドソンヤードにいる」
 ジョセフは嘘をついてみた。悪くない嘘だ。
「本当か? じゃあ店の住所を送るよ。俺はもうここにいるからさ。また後でな」
 送られた住所はハドソンヤードにある展望台レストランだった。最近オープンしたばかりで、なかなか予約の取れない人気店だ。イーサンが突然ここに呼び出すということは、少なくともジョセフのためではないとすぐに察することが出来た。おそらく予定していた人物がキャンセルした埋め合わせか何かだろう。それでも、なかなか入れない人気店に行けるのは悪い気はしなかった。
 ジョセフはねんのためスーツに着替え、戸棚に並べた香水を眺めながら髪を整え髭を剃った。しかし結局これといった香りを決めることができず、ブルー・ド・シャネルの香水を手に取る。ネットで検索すればいつだってオススメされる定番の香水。外れることはないが、時々同じ匂いのする男を見かけると少し嫌な気分になる。しかし香水なんてものに今更熱を上げることも出来ず、ただの世間体程度に香りを身にまとう。
 鏡に己自身を映し、ニューヨーカーとしての自分を客観的に眺めてみる。鏡に映るその姿に問題は見当たらないように思えた。問題があるとすればこの身ぐるみの中に隠れている “心” だ。
 ジョセフはマンションを出て、イーサンの指定した住所をグーグルマップでナビゲートする。Uberで10分、バスを利用しても15分もかからない距離だった。ジョセフは巡回バスでイーサンのもとへ向かった。

 ハドソンヤードはマンハッタンの西側にある地区で、南は30番街、北は41番街、西はウェストサイドハイウェイ、東は8番街に囲まれているエリアだ。都市計画の一部として大規模再開発プロジェクトが進んでいる比較的新しい地域で、ハドソン川を望むショッピングモールやライブ会場、展望台が軒並び、華やかな都会感が若者に受けている。しかしこのエリアのシンボルでもあったベッセルというパブリックアートの建築物は、オープンして早々、ここから4人の人間が飛び降り自殺をし、営業停止となった。自殺名所のレッテルを貼られたその印象の悪さもあって、このエリアの再開発はあまり上手く行っていないようなイメージが出来つつあった。
「それでもやっぱり、ここの展望台は人気なんだよな」
 エレベーターで最上階のレストランまで登ると、エントランスで受付嬢に呼び止められる。ジョセフはとりあえずイーサンの名前を伝えてみた。しかし案の定イーサンの名前は見つからない。ジョセフは仕方なく彼の番号に電話をかけた。
「もしもし、イーサン。着いたんだけど。どこ?」
「ああそうか。今、手が離せなくて。ジュリアって名前で予約してるから聞いてみて」
 電話は乱雑に切られた。仕方なく受付嬢にジュリアの名前を伝えると、彼女はようやく店の中へ案内してくれた。
 
“ジュリア”

 どう考えても女の名前じゃないか。ジョセフは嫌な予感を覚えながら案内された席へ向かう。摩天楼を見下ろす大きな窓のあるラウンジから少し奥へ行ったところに、いくつかのソファ席が用意されていた。その一角で煌びやかな男女がささやかな宴を開いているのが目に入る。
「やぁジョセフ。来たね。彼が今日のゲスト、ジョセフ・ジョーンズだ」
 イーサンはソファを立ち上がり、ジョセフに熱いハグをして歓迎する。彼の周りには女性ばかりが5人ほど取り囲んでいて、ジョセフを自然に歓迎した。ジョセフは今すぐにでもイーサンにこの状況の説明を求めたかったが、女性たちが品のある装いでジョセフをソファ席へ招いたためタイミングを失った。
「こんばんわジョセフ。何飲む?」
「あなた、大きいわね。身長いくつ?」
 つまらない会話が始まろうとしている。ジョセフはいまいち状況が飲み込めなかったが、こういうサプライズは人生には付き物だ。ひとまずジョセフはその場の空気に合わせることにした。しかしその空気は、ジョセフが今までよく目にしてきた雰囲気とはだいぶ違うものだとすぐに気がついた。女性たちはジョセフに “性的な” 関心を向けることはなく、お互いの会話を楽しんでいる。そしてその会話はイーサンの話術によって和やかに空間を支配していた。言ってしまえば、どの女性もジョセフという “男” に興味がないのだ。
「 “シーザー” とは最近知り合ったの?」
 隣にいた女性がそっとジョセフに声をかける。
「……ああ、つい数週間前に。君は? 彼とは長いの?」
「そうね。そろそろ5年くらいの付き合いになるかしら。昔バーで知り合ったの。彼、バーテンダーだったから」
「へぇ、意外」
「一人で飲んでるとよく声をかけてくれて。つまらない話を聞いてくれるの。彼がゲイなのは知ってるわよね?」
「ああ」
「ここにいる子はみんなシーザーの元お客さんね。お互いすっかり仲良しよ。それで、たまにこうやってみんなで集まるの。でも彼がゲストを呼んだのは初めてだから、あなたがシーザーの新しい彼氏なのかなって」
「……どうかな。彼から告白を聞いた覚えはないけど?」
 彼女はくすくすと笑った。それからジョセフは彼女と他愛のない話をした。それは仕事のことだったり、友人のことだったり、ジョセフがデートをする女性たちの会話と何一つ変わらないはずなのに、まるで家族と話をしているかのように気楽で、不思議と居心地が良かった。

「ジョセフ」
 イーサンが呼びかける。
「ちょっとバスルームに行かないか?」
 その声掛けに、イーサンの隣にいた女性が “ツレション” とはやし立てる。イーサンはその言葉に「男には3つのコミュニケーションがある。1つはタバコミュニケーション、2つ目は酒コミュニケーション、そして “ツレション” コミュニケーションだ」と訳の分からないことを言いながらジョセフの腕を引いて席を立った。
「なんだ今の話」
「適当なただの “コミュニケーション” さ」
 イーサンは何事もない顔を浮かべていた。
「……お前、シーザーっていうんだな」
「……ここの子は、みんなそう呼んでる」 
 ジョセフはなんとなく直感した。たぶんシーザーの方が本名だと。
「じゃあ俺もシーザーって呼んでいい?」
「いいよ」

 イーサンと名乗っていたシーザーという名の男は、見晴らしの良いラウンジで足を止めた。大きな窓がニューヨークの夜景を絵画のように切り取り、空間を贅沢なものへと変えている。しかしその美しい風景は、ジョセフにとってはただの見慣れた日常でしかなかった。
「なぜこんな場所に連れてきた?」
 ジョセフは何も言わないシーザーに率直な質問を投げかけた。
「お前のためと言ったら、嘘だと思う?」
「嘘だと思う。でも、嘘じゃないと思いたい」
「いいね。そう。そういうものさ、大概のことは」
 シーザーはジョセフに目を向けず、ただぼんやりと摩天楼の世界を眺めていた。
「……男になんか手を出す前に、お前はそのまま生きればいいんじゃないか? アメリカ人」
「それは、”お前はタイプじゃないからもう会わない” って意味?」
「お前は結構タイプだったし、会いたくないほど嫌いでもないさ」
「それが嘘じゃないなら、何でそんなことを言うんだ?」
「ただの親切心さ」
 シーザーはようやくジョセフの方を見た。しかしシーザーの視線は曖昧で、何を考えているのか世界中の誰もが分からないような神妙な雰囲気だった。ただその様子に、ジョセフは自分の鼓動が高鳴るのを感じた。
「……シーザーは、俺の身長を聞かなかった。でかいとも、大きいとも言わなかった」
 ジョセフの言葉にシーザーは訝しげな表情を浮かべた。
「俺にとって、それは非常に重要だ」
 ジョセフはシーザーの目を見た。もしかすると、ここまでしっかりと見つめたのは今日が初めてかもしれない。彼の瞳は新緑のような美しい色をしていて、よく見ると目尻には薄紅色の痣があった。
「俺がなぜ聞かなかったか分かるか?」
「いや?」
「ただ単に、くやしいからさ」
 ジョセフはシーザーの言葉に耳を傾けた。
「俺だってそれなりに高いんだぜ。この身長を気に入ってるんだ。それなのにお前の方がおそらく4インチはでかいなんて、認めたくないだろ」
「正直だな」
「そ。だから聞かなかった」
 シーザーはジョセフと何度か視線を絡ませた。そのたびにジョセフは身体の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。そんなジョセフの熱を知らないシーザーは無防備に話を続けた。
「女には二種類の顔があると思うんだ。男の前にいる女と、そうじゃない時の女」
 シーザーの指先は特に意味のないジェスチャーをした。
「ジョセフはさ、男の前にいる女の姿しか知らないんじゃないかな。俺は “男” じゃないから。ゲイは彼女たちにとって男ではないんだ」
 彼は少しだけ口角を上げて小さく笑った。

「俺は、俺の前にいるときの彼女たちが好きなんだ」

「……それはなんとなく、分からないでもない」
「どうしようもなくて生きている人間もいる中で、お前はしなくてもいい経験を特別な経験だと思おうとしているように見える」
「そうかもしれない」
「人を殺すとか、戦場に行くとか、必ずしもしなくてもいい経験だと思わないか? それと同じくらい、男とセックスなんてしなくていいと思うけどな」

 ジョセフはしばし黙った。

「……確かに、男とはしなくてもいいかもしれない。でもシーザーとだったら、したいかもしれない」
 シーザーは目を見開いた。
「……はは、凄い口説き方だな」
 そして少しだけ困ったような顔をして、そっと優しく笑った。
「でも今日はだめだ。彼女たちを幸せにしないと」
「あーあ、ふられちゃった……」
「次に会う機会があれば、考えておくよ」
 シーザーはそう言って、”ツレション” をすることなく宴の席へ戻って行った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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