Episode 2. the Lost Sheep – 1st Part

 
 
 
 
「次に会う機会があれば、考えておくよ」
 
 
 つまりそれは次に会う機会がなければ何も起きないし、次に会う機会があっても何も起きないかもしれないという意味だ。あの言葉はもしかすると巧妙な嘘だったのかもしれない。

 ジョセフ自身、女性との駆け引きにはそれなりに慣れていたつもりだった。しかし男相手となると全くもっての初心者だ。お陰さまで学生恋愛をしているかのようなヤキモキした気持ちに一週間も苛まれることになった。ジョセフはひとまずシーザーからの連絡を3日待つことにした。しかし案の定、3日経ってもシーザーから音沙汰はなかった。5日が経ってさすがにそろそろ自分から連絡しようとテキストを開くが良い誘い文句が見つからない。結局何も出来ないまま、こうして週末を迎えることになってしまった。
「……シーザーめ」
 あの夜なぜあんなことを口走ったのか、ジョセフ自身もよく分からなかった。とにかくあの夜の摩天楼には何か不思議な魔法がかかっていたのかもしれない。ジョセフはシーザーに間違いなく時めいてしまった。決定打なんて何もない。ただ “なんとなく” 時めいた。つまり生まれて初めて男相手に恋をしたのだ。
 強いて考えてみればいくつか思い当たることはある。まずシーザーはブロンドだ。完璧なくらいに混じりけのない美しいブロンドヘア。ジョセフの歴代彼女の7割はブロンドというくらい、ジョセフはブロンドが大好きだった。そして次にあの顔。そこらへんの女も霞むくらい整った目鼻立ち。少しアンニュイな雰囲気がありながらも一つ一つの表情に確かな自信と華やかさがある。男だというのに、思わずじっと見惚れてしまうような色気と美しさがあった。つまり、シンプルに言えば “タイプ” だったのだ。
「あー、くそ。どうしてくれるんだ……」
 ジョセフはベッドの上でしばらく頭を抱えていたが、ろくなことしか考えられなかったので、仕方なくベッドから這い出て顔を洗った。鏡に写る自分をじっと見つめながら深いため息をつく。ごちゃごちゃ考えたところで仕方ない。行きつけのカフェでお気に入りのチキンワッフルでも食べれば少しは気が晴れるだろう。ジョセフは身支度を整え、部屋の掃除をし、窓を少し空けて部屋を後にした。

 マンションを出ると桃色の花を鈴なりにつけた街路樹が目に飛び込んでくる。暖かい日差しを浴びて、まるで酒にでも酔ったみたいにふわふわと揺れているそれは、まさに春の妖精のようだった。伸びやかに広がる青い空、さざめく木漏れ陽、甘い空気の匂い。ジョセフは気持ちの良い春暖に胸を踊らせた。
 こんな素晴らしい日にもし涙を流している人がいるとしたら、いや、そんなことは許されるはずがない。そんな風に思えるくらいには春という美しいものたちが世界を幸福で満たしているように思えた。こんな日はちょっとくらいベーグルの茹で加減が悪くたって許せてしまえるくらいには、全ての現象が最高の気分を提供してくれる。つまり、頭のネジがちょいとばかし緩んでしまい、全てがどうでもよくなるくらいには気持ちの良い日だったのだ。まさにセントラルパークへ散歩に行って、のんびり花見でもしたい気分だった。
「あ、それいいな」
 こんなに素敵な天気なら誰だって外に出かけたくなるだろう。あんなに悩んでいたのが嘘のように、ジョセフはすぐさまシーザーに電話をかけた。呼び出し音が4回ほど鳴った後、待ち望んでいた声が聞こえた。

「もしもし?」
「やあシーザー。おはよう。今日はいい天気だよ」
「天気?」
 シーザーは気怠い様子だった。
「シーザー? 寝てるの?」
「ああ、昨日ちょっと飲み過ぎたかもしれん。今起きたところだ。で、天気がなんだって?」
「天気が素晴らしいんだよ。だから散歩にでも行こう」
「散歩?」
 シーザーはまだ寝起きなのが曖昧な様子だった。しかしジョセフはそんなこともお構いなしに、いかに今日という日が素晴らしいかを熱く語って聞かせた。
「わかった、わかった。休みの日の昼間っから俺を散歩に誘うようなアホはお前が初めてだ」
「うん。でもそれくらい天気がいいんだ」
「晴れの日なんて、これからの人生ごまんとある」
「うん。でも今日はそのごまんとある晴れの日の中でも特別にいい天気なんだ」
「はぁ……わかった。わかったから。どこに行けばいい」
「セントラルパークへ行こう。ピューリッツァーの噴水前で待ってるよ」
「ああ。30分後に行く。エスプレッソでも買っといてくれ」
「OK」
「ダブルでな」
「了解」

 シーザーとの電話は切れた。ジョセフの心は最高潮だった。恋をしている時、日常は華やかになる。目に映るもの全てが輝き、些細な出来事にもドキドキと鼓動が高鳴る。ジョセフはそんな心地を久しぶりに思い出していた。可愛らしい花をつけた街路樹の陰で鳥たちが甘い声で恋の唄を歌っている。ジョセフはスキップをしながら約束の場所へ向かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
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「遅いぞ!」
「え! 早くない?」

 エスプレッソバーでダブルサイズのエスプレッソを2つ注文し、適当に店員が勧めるパニーニを買ってから待ち合わせの噴水広場へジョセフは向かった。しかし時間としては30分も経っていないはずなのに、シーザーは既に待ち合わせ場所でくつろいでいた。
「シーザーの家、この辺なの?」
「どうだろうな。この辺で “寝ていた” のは事実だが、俺の家とも限らないだろ?」
 シーザーはにやりと笑った。ジョセフはあえて深追いはせず話をそらした。
「はい。エスプレッソ」
「ジベットに寄ってきたのか。気が利くな」
「向かいにスターバックスもあったけど?」
「スターバックスはやめろ」
「だろうなと思って」
「ジベットは “本物” だぜ? それにカプレーゼのパニーニも美味い」
「そうかなと思って、買っといた。よく分からないから店員のお勧めのやつ」
「やるじゃないか」
 シーザーはにっこりと上品に笑った。今日のシーザーは以前会ったときとは違い、ブルーのカジュアルスーツを着ていた。少し丈の短いスーツの裾から白い足首が覗いていて、明るいスエードの革靴が春らしい。30分足らずで身支度を整えたとは思えないほどに垢抜けた姿だった。ジョセフはスーパーに買い出しに行くような適当な服を着てきてしまったことを少し後悔した。
「さっきから何を見てるんだ?」
 シーザーがジョセフの視線を掴まえる。
「あ、いや。……その服、いいなと思って」
「これか?その辺の安物だぜ?」
「うん……」
 男に向かってお洒落だとか綺麗だとか、そんな言葉を言うのはなんだか歯がゆくてジョセフは言葉を飲みこんだ。そんなジョセフの胸中など知る由もないシーザーは公園に向かって颯爽と歩いている。二人はエスプレッソを飲みながらセントラルパークへ足を踏み入れた。公園の入り口にはザ・ポンドと呼ばれる湖があり、その畔では春の魔物に憑りつかれ、惚けている人間たちが所狭しとくつろいでいる。湖畔は早くも先客でいっぱいだった。
「人が多いな。考えることは皆一緒、ということだな」
「暖かくなるとみんな、どこからともなく出てくるよね」
「熊みたいだな、ニューヨーカーってやつは」
 二人は人で溢れ返るギャップストウの橋を渡り、更に北へ歩いてザ・モールの遊歩道まで足を伸ばした。ベセスダテラスまで真っ直ぐに伸びる全長1000フィートは越える遊歩道は散歩やランニングをする人たちでいつも賑わっている。道の始まりにはコロンブスとシェイクスピアの銅像が並び、その前では様々なパフォーマーが自分の特技を披露し合っている。ジョセフは何か話題を見つけようと周囲を観察するが、なかなか手頃な話が見つからないまま、シーザーの隣を手持無沙汰に歩き続けた。
「ジョセフ」
「うん?」
「さっき買ったパニーニ食べたい」
「あ、うん。じゃあ、シープメドウへ行こうか」
 適当に食べ歩いても良かったが、なんとなくジョセフはシープメドウを目指した。

 ―———シープメドウ
 その名通り羊の牧草地だ。セントラルパークの真ん中に位置する広大な芝生の平原で、残念ながら羊はいない。羊の代わりに平原にはたくさんの人間たちが集まり、ピクニックをしたり、日光浴をしたり、ヨガをしたりと、住人たちの憩いの場となっている。二人は一面に広がる芝生の絨毯に腰を下ろした。
「暖かいな」
「……そうだね」
 会いたくて仕方なかったのにいざ会うとどうしていいか分からないなんて、ジョセフはまるで10代の子どものようにちぐはぐな気持ちだった。今までデートしてきた相手とはどうしてきたのかを思い出してみる。間違いなくもっと自然に接することが出来ていたはずだ。セントラルパークでも何度もデートをしてきた。しかしそれらの行動パターンを思い出してみても、全てがシーザーの前では滑稽な演技のように思えてきて、ジョセフはくるみ割り人形みたいに無言で佇むことしか出来なくなるのだった。
 ジョセフの戸惑いなんてシャツについた白ワインのシミ程度にしか思わないであろうシーザーは、芝生に大胆に寝ころびながらパニーニにかぶりついていた。その光景全てがとても “美味しそう” に見えた。
「こんな昼間に俺を誘う奴はあんたが初めてだ。しかも公園だぜ?」
 シーザーから他愛のない会話の送球。ジョセフはありがたくそれを受け取った。
「そう? セントラルパークってわりと来ない?」
「俺は行かない」
 シーザーはまた一口、また一口とパニーニを口の中へ放り込んでいく。当たり前だがその食いっぷりは6フィートは越えるであろう大男のそれで、ジョセフは彼が同性であるということを強く意識した。
「俺を誘うやつは、大体夜に声をかけてくる」
 シーザーは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そっか」
「だから、まぁ、たまにはこんなのも悪くはない」
 ちょっとした会話が終わる頃には、”本物” のパニーニはシーザーによって跡形もなくなっていた。女の子とピクニックをすると、サンドイッチを食べ終わるのに30分はかかるのに。
「うん、やっぱり美味い」
 指先についたオリーブオイルをペロリと舐めて、シーザーはジョセフを見た。光る指先も赤い舌先もジョセフを官能的な気持ちにさせるには十分だった。ジョセフは思わず目をそらした。
「お前はそれ、食べないの?」
「た、食べるけど……」
 寝ころんでいたシーザーがジョセフのすぐ傍までにじり寄る。手元にあったプロシュートのパニーニをロックオンしたシーザーは、今にも噛みつきそうな様子だった。身体が触れるくらい近くにシーザーがいる。
「……シ、シーザーは、何の香水つけてるの? なんかさっきから、いい、匂いする……」
 気をそらそうと話を振ると、シーザーはふとジョセフを見るなり、首元に鼻を近づけた。
「ジョセフはなんだか、子どもみたいな匂いがするな」
「きょ、今日は! 特に何もつけてないから……!」
 思わず身体を離す。それは40インチくらい飛び上がる勢いだった。
「フフフ、お前さ、前会った時と印象違うな」
「……き、今日はオフだから。それにほんと気まぐれで電話しちゃって。オフの中でも完全なオフっていうか…… なんか、ごめん」
「全然いいよ」
 シーザーは呆れるでも馬鹿にするでもなく、意外にも優しい表情を浮かべていた。休みの日の昼間からろくな会話も出来ない野暮な男に時間を割いているにも関わらず、彼は退屈そうな様子を一切見せなかった。それはこの春の陽気のおかげかもしれない。全てのことが何でも許せてしまえる春の魔法には感謝しかなかった。

「シープ・メドウってさ、昔は本当に羊がいたのか?」
 シーザーが唐突に問いかける。
「え?」
「シープ・メドウには羊がいたのかなって」
「……昔はね」
「本当に?」
「うん。歴史ではそう習ったけど。昔はサウスダウンの羊が200頭はいたらしいよ」
「へぇ……」
「セントラルパークは元々、都市生活者のストレスを減らすために人工的に作られた公園なんだ。だから草原に羊を放って…… イギリスにある牧羊地みたいにさ。街の人を癒そうとしたらしい」
「はは、それ本気かよ」
「今は人間が “牧羊”されてるけどね」
 ジョセフの冗談にシーザーは笑った。
「昔はここで、羊が寝てたんだな」
 シーザーは寝転びながら少し嬉しそうな顔をした。

 ジョセフは公園に羊がいるところを想像する。200頭の羊が草原でのんびりと草を食べている。彼らは満足気な顔を浮かべていた。毎日毎日ジョセフはその羊たちを眺めて、暇だから左端から順番に数を数える。羊が1匹、羊が2匹。それでちゃんと200匹いるのか確認する。でもある日、数えても数えても1匹足りないことに気がついた。どこへ行ったのだろう。探しに行かなくては。でもこの199匹の羊を置いて行くなと誰かが言う。1匹くらい放っておけと。ジョセフはその声を聞き入れて再び羊たちを眺めて過ごす。羊が1匹、羊が2匹。頭の片隅にいなくなった羊を思いながら。

「……俺は、羊を探してるのかもな」

 ジョセフはなんとなくそう呟いた。シーザーはぼんやりと遠くの空を見つめていた。

「なぁジョセフ、この後時間あるか?」
「うん。今日は一日暇だけど」
「……じゃあ、今夜イタリアンを食べに行かないか? いい所を知ってるんだ。あんたのオフの日に合わせてドレスコードはなしだ」
「もちろん!」
 
 シーザーを見ると、シーザーもジョセフを見つめていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 レストランで食べたのはとびきりに美味いイタリアンだった。どういうわけだか、シーザーはいわゆる ”恋人モード” に入ってくれたらしい。食事中も、こうして食事を終えて帰路についてからも、彼は終始ロマンチックに振る舞い続けた。ロマンチックな振る舞いとは何か。それを言葉で説明するのはなかなか難しい。例えばふと目が合ったとき、彼は少なくとも5秒間は視線を絡めてくる。何か含みを帯びた甘い瞳でジョセフが奥の方に隠しているものを覗き込もうと言わんばかりの視線だ。まさに彼は自分が持っているありとあらゆる武器 ―——― 唇や指先はおろか、耳や鼻先やまつ毛の一本一本ですら———— 巧みに使いこなし、自分の魅力を見せつけてくる、ような気がする。しかし流石に全てがジョセフの勘違いとは思えないほどに、確実にシーザーは優美だった。何が決め手でそんなモードに入ってくれたのか聞きたい気もしたが、それは野暮というものだろう。
「シーザーありがとう。あんな美味いラザニアは初めて食べたよ」
「美味いだろう。あとあそこはシーバスも美味いんだ」
「家の近くなのに、全然知らなかった」
「あの辺はちょっと入りにくいエリアだからな」
 ヘルズキッチンの46番街。マンハッタンきっての繁華街のど真ん中。しかもただの繁華街じゃない。ピアノバーやナイトクラブがひしめき合い、虹色の旗が玄関先にはためくような欲望賑やかなストリートである。
「ジョセフ、この辺住んでるんだ?」
「え、あ。うん……」
「この辺って、どのへん?」
「……42のあたり」
「そっか。じゃあここからだと、俺ん家より近いや」
 帰り道のシーザーは昼間よりずっと近くを歩いていて、指先がそれとなくジョセフの手に何度も触れる。シーザーと会うのは3回目だ。3回目のデートの夜、大体の女の子とは手を繋ぐ。だから別にこれは何らおかしなことではない。シーザーとはマッチングアプリで出会った恋人候補だ。だからこれは何らおかしな行動じゃない。普通なんだ。ジョセフは自分に強く言い聞かせる。

 交差点を横切ると、シーザーが突然腕にしがみつくようにして身を寄せてきた。何と大胆なアプローチ!などと心の中で実況しながら思わずシーザーを見ると、彼はジョセフには目もくれず、正面を真っ直ぐ睨んでいた。すると目の前を見知らぬ男が横切り、男はシーザーとジョセフを交互に見てハイエナみたいな顔をして嘲笑した。
「今の誰? 知り合い?」
「大した知り合いじゃない」
 ジョセフは通り去った男を威嚇しようとするが、シーザーは腕を強く引いてそれを阻止した。
「気にしなくていい」
 何かを知り尽くしたかのように、シーザーは冷静だった。そして未だに彼は腕から離れようとしない。もう夜だというのに、シーザーからは昼間と同じ香水の匂いがする。結局今のジョセフはその男よりもシーザーの方が気になって仕方なかった。ジョセフの心臓はこの上なく高鳴っている。

「なぁジョセフ、お前の家行っていい?」

 ジョセフはシーザーと指を絡ませることに成功した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
>>後編(2nd Part)