黄昏の海は人々の心模様に関係なく、ただそこにあり続ける。ただあるがままに――――――
The Worldにログインした時、始めて訪れる街、マク・アヌ。老若男女問わず世界中の人々がアクセスするようになっても、全ての人に等しく、黄金色の穏やかな空気で歓迎してくれる港街だ。
そんなマク・アヌの中心に位置する噴水広場に、まるで地縛霊か何かのように、毎日歌を口ずさむ一人の詩人がいた。彼はこの世界で「盲目の吟遊詩人」という通り名で呼ばれている。彼はログインしている間のほとんどを、この始まりの広場に腰を下ろし、歌に乗せて物語を奏でることに費やしていた。その歌はこのThe Worldにある伝説から、ちょっとした噂話、昔活躍したPCの話まで様々だった。時にCC社(The Worldを統括している管理会社)の内部の人間しか知らないような暴露話なんかもするものだから、管理側の人間ではないか?ものすごいハッカーなんじゃないか?などと、様々な憶測が飛び交うこともあったが、周囲の反応をよそに、彼はただ静かに歌い続けるのだった。
「さっきから、誰の話をしているの?」
そんな詩人に声をかける一人の少女がいた。少女は何の歌を歌っているのかではなく、誰の歌を歌っているのかと尋ねた。彼女はおそらく、それくらい吟遊詩人の歌をよく聞きこんでいて、何かを考えていたのかもしれない。それともそれが彼女なりの視点だったのかは分からない。しかし、その純粋な質問に詩人は心を楽しく弾ませたのだった。
「こんにちわ、お嬢さん」
少しキザな物言いで、詩人はそっと少女がいる辺りへ首を傾げた。その瞼はゆったりと閉ざされ、口元には綺麗な半月型の微笑を浮かべている。色の薄い、透き通るような金髪を、肩口で三つ編みに束ねていて、非常に中性的な伊達立ちだった。ぼんやりと、ふんわりと、今にも風景に溶け込んでしまいそうな姿は、まさに流離いの詩人といった雰囲気だ。
「古い友人の話さ」
そしてその声は、テノールの穏やかな響きだった。
「俺はずっとここで歌を歌うだけ。毎日そうしているから、もう誰も俺の歌を聞いていない。日常というのはそういうものかもしれない」
久しぶりに誰かと話をしたかのように、詩人はやや早口で続けた。
「でも俺の歌に気を止めていなくても、俺がここからいなくなったらちょっとした騒ぎになると思わないかい? 自分の街に昔からある、だけど一度も行ったことのない喫茶店が突然潰れた時みたいに。いや、もしかすると、それでも今は、大した騒ぎにはならないかもしれない」
伏せられた瞼がほんの少しだけ震えた。
「つまり、そういうことだよ」
まるで独り言のように語りながら、ポロロン……と柔らかなリュートの音を黄昏色の街に向けて奏でる。彼はこの街自体を非常に慈しんでいるかのようだった。
噴水周りは、いつも忙しなく多種多様なPCが走り回っている。そこはどこかの国の駅前広場だとか、ビルの谷間に作られたちょっとしたビオトープだとか、もしくは市場の真ん中にある交差点だとか、そういった雰囲気の、様々な人間たちの時間が密集した場所だった。吟遊詩人と言えば聞こえがいいが、そんな人々の行き交う広場に佇み、歌を歌い、ふわふわと流離う男なんて、現実における浮浪者とそう大差はなかった。つまり、彼に”あえて”気を止める者はとても少なかったのだ。
「そこで、お嬢さん。何か探しものかな?」
「なんでそんなこと分かるのかしら?目、見えてないんでしょ?」
「見えてないから分かるのさ」
何か楽しいものを見つけたかのように、詩人は少女へ語りかけた。少女が自分に興味を持つこと自体が、彷徨い人の証明だと言わんばかりの自信だった。何か既に目的を持っている者たちは、浮浪者や詩人のような理解のできない他人に気を止める暇などない。彼らの眼差しは目的のためだけに向けられている。恋人に会うのが目的なら、自分自身の顔や服装や髪型、しゃれた花屋なんかに視線が行く。家族に会いにいくのなら、もしかすると、遠い日の思い出に心が浮ついているかもしれない。そんな感じに。だからこんな風変りな男に構う者は、大抵、目的を見失った彷徨う魂を抱えた人間なのだ。彼女が見失ってしまった目的を、少しでもいいから見つけたいと思うのが、詩人なりの正義だった。
「あなたは、なぜ、ここにいるの?」
「なんでそんなことを聞くんだい?」
「好奇心よ」
「いいね」
「あなた、ちょっと変わってるもの」
「好奇心から見知らぬおじさんに声をかけて、質問をする。それはとっても素晴らしいことだ」
おじさんはいつも一人だからね、と独り言のようにつぶやくと、彼は少し悲しいメロディーを奏で始める。
「あなた、おじさんって感じしないわよ?リアルはおじさんなの?」
「どうかな」
「でも、毎日ここでふらふらしてるのなら、変なおじさんかもしれないわね。分からないけど」
少女は興味がないといった様子で詩人をぼんやりと眺めた。
「君はなぜ、ここにいるんだい?」
「探してるから……」
「昔、あるかも分からない、この世界の真実を探しているギルドがあったよ」
「そうなの?」
「でも、解散してしまった。彼らが真実を見つけたのか、見つけられなかったのか、俺は知らないけどね」
詩人は顔を上げて遠くの方を見ている素振りをした。その瞼は閉ざされていたが、瞼の裏には遠い日の記憶が焼き付いているのかもしれない。
「君は何か前向きに、探しものをしてるのかな? どうにも、ただ今の現実から逃げ出したいだけにも思える」
「わからないわ。ただここではないどこかに行きたいだけよ」
「The Worldは広い。どこまでも行ける。でも、この世界には果てがある。地球に果てがあるように。きっと。世界の果てがどこにあるか、君は知ってるかい?」
「ここよ」
少女は迷う事なく言った。
「一周回れば、きっとここに戻ってくる。だから、ここではないどこかに行きたいの」
「この世界で、自分の望みを全て満たせるような存在になりたい、違うかい?」
詩人は少女の質問を遮るかのように、そして何かの確信を得たかのような口ぶりで問いかけた。少なくとも、その問いはこの世界におけるひとつの真実の先、真実を求めた者に対する解答だったからだ。そして、それと同時に、詩人は少女が何か、思春期特有の虚無感や厭世観に苛まれているのではないかと考えたのだった。そして、彼女のリアルは、非常に豊かで、これといった不自由や不満のない、比較的高水準の家庭なのではないかと想像していた。モラトリアム。満たされているからこそ気が付かない、当たり前の幸せを甘受できない幼さ、そういったものではないかと予想していた。
「そうではないの」
しかし、その問いかけは心外とでも言いたげそうな、苛立った様子で少女は否定した。
「私はもう、もしかしたら満たされている。だから探してるの。ここではないどこか、自分ではない誰か。今ではない、いつか」
一蹴する彼女の言葉は何ひとつ迷いがなかった。詩人は、少女が何か自分の抱える問題を理解していないからこそ、彷徨っているだけかもしれないと思ったが、おそらくそれは違うと直感的に理解した。彼女は、現実のその先を見ていた。
「私、常々思うのよ。こうしてPCを作って、自分自身をデザインして、演じて、きっとこれから、そうやって人間は生きていくんだって。自分自身をどのように見せていくか、デザインしていくか、というしがらみに一生付き合わなきゃいけないって」
少女は深い悲しみを抱いているかのように、感傷的に嘆いた。
「私がこういうことを言うから、あなたはもしかすると、面倒くさい子だとか、面白い子だとか思うんでしょ? でも、私がこういうことを考えていながら、何も”話さない”女の子だったら、何も分からないじゃない? 私、それが腹立たしいのよ」
噴水を背に佇む詩人を眺めながら、たんたんと意見を吐露し始める。彼女の視線は詩人を捉えていたが、その瞳に浮かべているものはもっと遠いどこかへの憧憬のようだった。
「つまりね、声を上げなきゃいけないってことよ」
少女はまるで興味がないといった様子で、黄金色に染まる街並みをぐるりと見渡した。
「私がただこうやって、思っていることを、いちいち、誰かに向けて言葉にしたり、形にしたりして、発信しなきゃいけないってこと。それが腹立たしいのよ」
詩人は少女の言葉ひとつひとつを注意深く聞いていた。その言葉、そして彼女から醸し出される雰囲気には、少女とは思えない重厚さがあり、一瞬一瞬気を張りつめて観察しないと、理解が追いつかないかもしれないという緊張感があったからだ。目の前にいた、少女だと思っていた女性は、出会った時のあどけなさを失い、その声色は妙齢の女性のようだった。
「黙ってあなたの目を見ていれば、全てが分かるようにならないのかしら。だって、ふふ。あなたを見ていて、私、とても素敵な気持ちなのよ。でもそれを伝えるために、好きだとか愛しているだとか、いい人ね、だとか、安っぽい記号を並べないといけないの。嫌なのよ」
ただここではないどこかに行きたいという孤独に抱きしめられたかのように、彼女は希望と絶望の間を行き来するニヒリストのように語った。虚ろな瞳は、黄昏の街を無為に映すばかりで、彼女が目の前の風景に対して何を思っているのかを理解できる者は、この場にはいなかった。
「赤ん坊が時々羨ましくなるわ」
彼女は喉の奥を震わせながら、静かに笑った。
「ふふ、でもあなた、そう、目が見えないのよね。残念だわ」
少女はいつのまにか詩人より年上の、まるで詩人の母親のような、落ち着いた物言いになっていた。彼女は少女のふりをしていたのだろうか。その雰囲気はまるで純粋といった様子で詩人に声をかけた人間とはまるで違うものに変わっていた。
「あなた、私をよくいるお嬢さんか何かだと思ってたでしょ?」
その言葉の核心さに、詩人は思わず顔をあげた。すると少女は詩人の顔にそっと触れ、まるで赤子を撫でるかのように優しく頬を包んだ。詩人は驚き、思わずその手を払いのけてその場から立ち上がり、少女から後ずさった。
「あ、いや……申し訳ない。つい……その………」
詩人は少し混乱していた。吟遊詩人のような生き方を選んだのは彼自身だった。そしてそれは、社会的にも個人的見解の中でも、おおよそ上手くいっていた。価値の継承と、彷徨う人々を導くという正義。彼自身で選んだその生き方とそれに対する自負。それは確かなものだったのだ。しかし、少女だと思って安易に導いてあげようなどと正義感を振りかざした罰だろうか。手を払いのけたことと、その安直な考え方両方に詩人は謝罪した。
「いいの」
少女は全く気にしないといった様子で笑った。
「じゃあねおじさん。また来るわ。とても楽しかったわ」
その物言いは、声をかけてきたときのあどけない少女といった様子に戻っていた。そして彼女は颯爽と噴水広場を駆け抜けていった。
あまりにもあっけない出来事に、詩人は茫然とするしかなかった。
ここにあるのはいつもと変わらない雑踏。忙しない人の群れ―――――
悪魔か座敷童か。それとも天使だったのか。
詩人はただ立ち尽くすことしかできなかった。