編集長 / 番外:森野優一の調査手記①

 
 
 
 
 
 
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 午後4時。同僚たちのもの言いたげな視線を無視して、早々に帰路につく。記者の世界に定時なんて概念はあってないようなものだが、仕事場というしがらみの詰まった箱に取り残される者は、いつも去り行く者を疎ましい眼差しで送り出す。これも一種の儀式のようなものかもしれない。
 世界はまだ明るい。陽が緩やかな坂道のように傾き、少しだけ世界が終わりに向けたオレンジ色を抱き始めるが、空気にはまだ今日の暖かさが残っている。仕事が終わってもまだこの明るい陽射しの中を歩けるのは気分が良い。そして今夜は酒の味が分かる友人でもあり恩師でもあるひとりの男と会う予定になっていた。予定では午後5時に待ち合わせをしていたが、どうせあの男のことだ、もう既に飲み始めていてもおかしくない。確かちょうど、雑誌の入稿を終えて、今日は完全にオフのはずだ。
 「CLOSED」の看板を掲げ、まだ眠たいまなこを浮かべている繁華街を抜けると、街のシンボルともいえるハイカラな高層ビルが見えてくる。一見オフィスビルにも見えるそれは、2階までがショッピングモール、高層階がレストランやバーという大人達が好きそうな間取りとなってる。いつもだったら今抜けてきた繁華街の一角で、己の思惑や欲望すら整理できていない大人たちとぐちゃぐちゃになりながら飲み明かすのだけど、今日はそんな世界を “まるで大人” といった風格で見降ろすことになりそうだ。まったく一体どういう趣向だろうか。
「給料でも上がったのかなぁ……」
 それともただの気分転換か。どちらにせよいつもとは違う理由があるのは間違いなさそうである。しかし何にせよ、あの高台で提供される酒類が美味でないわけがないだろう。優一は襟を正してから、ビルのエレベーターに颯爽と乗り込んだ。

 東京中を見渡せてしまうほどの高層ビル。そのためエレベーターは一度動き出すと、地上に戻るまでに数分はかかるようだ。おかげ様で案内人にしばし人が来るまで待たされたが、どういうわけか今日は他に乗る人がいなかった。優一はひとり、四角い箱の中に閉じ込められる。そしてそれはほとんど物音を立てることなく、1階、2階…と案内板のライトを光らせ始めた。3階の表示以降、しばし何もない空白を刻み、一気に27、34…と大きな数字を刻み始める。すると耳の中の空気がキュッとくぐもり、脳を揺らした。身体の中の臓器たちが不意打ちの重力に困惑しているのを感じる。優一は実感のない床の向こうを想像しながら、ごくんと唾を飲み込んだ。
 こんな高層ビルに囲まれた生活をするようになって、どれくらいの月日が経ったのだろうか。マク・アヌの港に初めて降り立った頃の優一は、「東京」というその響きすら遠い憧れでしかなかった。ずっと宮城の田舎街で育った優一は、大学に入学して念願の一人暮らしと自由なネット環境を手に入れた。そして意気揚々にログインしたネットゲーム・The World。初めてログインした時は右も左も分からないまま、気が付けば初心者支援ギルド・カナードの一員になり、しばらくの間初心者サポートに情熱を捧げていた。そんな中、初めて”友人の力になりたい”という強い意志を持ち、腕に覚えのある屈強なPC達の集まる闘技場ルミナ・クロスに参加し、他者と戦うことを覚えていった。そして気がつけば、上級者向けのタウン、ブレグ・エポナに降り立っていたのだった。そのタウンを見た時、きっと東京もこんなキラキラした街なんだろうと思った。そして本当に心の底から、こんな場所にまで連れてきてくれたその”友人”を尊敬したし、感謝の気持ちでいっぱいになった。そんな彼は東京で生まれ、東京で育ったと言っていた気がする。
 ピイーンと、懐かしさと新しさをマリアージュさせたような機会音。どうやら最上階に着いたようだ。そこは展望台や美術館なんかも併設していて、ちょっとした空中娯楽施設という趣だった。道なりに進むと、周囲を一望できそうな大きな窓のある、なかなか小洒落たレストランに辿り着く。午後4時過ぎということもあって、そこはまだほとんど人がいない。そんな洗練された風景に、とても不釣り合いな強面の男が黄昏れていた。
「お疲れ様です、緒方さん」
 優一が声をかけると、その男は我に返ったかのように身体をぴくりと震わす。まるで今までM2Dを装着していたかのような、我ここにあらずというぼんやりとした表情だった。しかしそれも束の間、優一と目を合わせると暑苦しい笑顔で出迎えてくれた。

 男の名は緒方幹久(おがたみきひさ)。都内在住のプロレス雑誌編集者である。とは言っても、このご時世プロレス雑誌だけでは経営も厳しいようで、オンライン格闘ゲームに関する情報メディアを展開し、それが現在の主力媒体となっている。The Worldにおける闘技場ルミナ・クロスの同行にも詳しい。そして闘技場覇者だけが参加できるギルド・イコロの創始者でもある。まだ40代そこそこの年齢のはずだが、顎にまで髭をたっぷりと生やし、まるで一昔前の大物俳優のような貫禄と渋みのある伊達立ちをしていた。優一はそんな彼と、The World R:2時代に闘技場を通じて出会い、優一がThe Worldを離れてからも、編集者と記者ということもあり、個人的な交流が続いていたが、彼と週末に飲み交わすほどの仲になったのはカナードの事件が起きてからのことだった。

「よう、森野!今日の記者会見、観たぞ!」
人一倍大きなしゃがれ声を上げる。
「僕、映ってないですよ」
「なかったな!」
 がははと陽気な声で笑いながら、豪快にビールグラスをあおった。
「ま、とりあえず座れよ。遅いから一人で先に始めちまったじゃねぇか」
「遅いって、まだ4時過ぎですよ? 5時って言ったじゃないですか。でも、どうせそんなことだろうと思って、早く来たんですけど」
「さすが森野!分かってるじゃねぇか。酒飲み同士、考えてることがわかるってことだなぁ~」
「知りませんよ」
 既に一人でグラスをひとつ空け、新しいビールを注文する男に飽きれた視線を送りつつ、優一も同じものを注文した。しかしこんな場所でビール?ついついいつもの癖で頼んでしまったじゃないか。どうせなら何かもう少し雰囲気のある物を頼めばよかったかとも思ったが、目の前の男を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。
「それより、入稿、無事終わったんですか? 珍しく忙しそうだったじゃないですか」
「ん?終わらなきゃこんなとこにはいねぇよ。ま、終わらなくても、終わらせるのが、編集長の務めってもんよ!」
「そ、う、なんですかね……」
 そんな調子の彼を見ていると、現場で働く同僚たちに同情せざるを得ない気持ちになってくる。
「それじゃ、緒方さんの部下に、乾杯!」
「なんだそりゃ?今日はお前さんのテレビデビューに乾杯だろぉ?……乾杯!」
「カメラレンズの表面にしか映ってないですよ……」
「いいじゃねぇか。世の中そんなもんだろ?」
 いつもならお互いのジョッキを豪快に鳴らす。ビールの泡がこぼれて床を濡らすくらいに。しかし今日は少し細身の、繊細なグラスだったので、小さく掲げて、チンと、優しく鳴らした。まぁ、たまには、そんな “乾杯” も悪くないかもしれない。優一は良く冷えた金色の聖水を、一週間の思いと共に喉の奥へ流し込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 こうして緒方と飲み交わすのはさほど珍しいことではない。カナードで起きた大量未帰還者事件(Canard Coma Case)、通称「C.C.事件」。その事件が起きて以来、優一は緒方と情報交換をする仲になっていたからだ。実のところ優一はこの事件が起きるまでThe Worldから離れていた。そのため、現バージョンでは全くの初心者となり、この世界で情報収集をするのは非常に骨の折れる作業となっていた。しかし緒方は、The World R:2以降もそれぞれのバージョンでPCを作り、古参プレイヤー “PC・大火” としてThe Worldに名を馳せていたので、調査の協力を依頼したのだった。

「お前さん、最近The Worldの調子はどうよ? あんまりログインしてねぇじゃねか」
「何かと忙しいんですよ、僕は」
「昔は毎日にようにログインしてたのによぉ……」
「べ、別に。あの時はまだ学生だったし……」
 正直、ほとんど毎日ログインしていた過去の自分に感心してしまう。何に一番感心するかというと、それはまさに”体力”というやつにだ。一日3、4時間かそこらの睡眠で大学の課題をこなし、時間を見つけてはThe Worldにログインし、カナードの業務も確実にこなしていた。今の仕事と比べたら内容としては他愛のないものかもしれないが、今同じことをやれと言われたら正直こなせる気がしない。
「でもお前ぇさん、まだ29だろ? 俺ぁあんとき35だったんだぜ? 腑抜けたこと言ってんじゃねぇぞ」
「……ぅんぐ……。だめですよ。そういうの、今はパワハラって言うんですよ」
「がっはっは!確かにそうかもなぁ!ま、確かに、あんときと今じゃ世の中随分変わったからなぁ。お前さんに同じことを要求したりしねぇよ。別に俺は今時のヤツがどんな風でも、気にしちゃいねぇ。気にしては、いないんだがな………」
 歯切れの悪い物言いをしながら、緒方は通りがかりのウェイターに追加の酒を注文する。この店で出会った時から、いや、それ以前にこんな店をチョイスしてきた時点で、彼の腹の中に何かわだかまる話があるのは確信していた。なかなかいつもの調子を崩さないところは、彼の性格なのか、優一に対する遠慮なのかは分からない。しかしさすがの優一も、いつまでものらりくらりとした話題に時間を費やすくらいならと、腹をくくることにした。

「……緒方さん、何かあったんですか?」
 優一はあえて深刻な雰囲気で問いかける。そうでもしないと、この男はこのまま話をする機会を得ることなく、ただ飲んだくれ続けてしまいそうな気がしたからだ。
「…………ん? いや、まぁ………………そうだなぁ。…………じゃあ、本題にちょっくら入らせてもらうか」
 ようやくといった様子で緒方は改まった。そして、しばしの沈黙を解くかのように、先ほどのウエイターが琥珀色の酒を2つ運んできた。どうやら緒方は優一の分も頼んでいたようだった。ごゆっくりどうぞ、なんて改まった台詞を告げられ、琥珀色の液体の中で鎮座する真ん丸の氷を、優一はしばし眺めた。

「まぁ、これは、あんたの言ってるマザーの話と、関係ない話ではないんだ。………まぁ、ようは、俺の家族の話なんだが………」
 ようやく緒方が口を開いた。彼は目の前に置かれたロックグラスを優しく撫でながら、次の言葉を探しているようだった。琥珀色の美しい液体を受け止めるグラスは、先ほどのビールグラスとは違いどっしりとしている。優一の前にも同じグラスがあるが、それは悪ふざけをする子どもを笑っているかのように場違いに見える。しかし、緒方の大きな手のひらを前にすると、それはまるで初めからそこにあったかのように非常に馴染んで見えるのだった。

「………単刀直入に言えば、娘が、妊娠したんだ……」
 唐突に切り出される。沈黙が突如、賑やかな音楽のように騒めき始めた。

「……え!?………あれ、でも、緒方さんの娘さんって……」
「………15歳、だ」
 緒方の手の中で馴染んだグラスが、ゆらゆらと不安げに揺れている。

「………ちと、話が長くなるんだが、娘がとあるギルドに入っていたんだ。俺はあいつが小学生の頃からThe Worldをやることを止めなかったし、The Worldのどんなギルドに足を運んでいようと俺はそんなに気にしちゃいなかった」
 いつもの威勢のいい声を抑えながら緒方はゆっくりと続けた。
「………あいつは賢いし、そのギルドだって別に怪しいもんじゃない。詳しくは知らないが、聞いた限り”月の樹”みたいなもんだろうと思ってた。世界がより良いものになるよう考え、議論する団体って話だった」
 ぽつりぽつりと、しかし確実に、言葉は淀みなく紡がれた。頭の中で何度も何度も自分自身と対話をしてきたかのように、その言葉は驚くほど鮮明だった。
「議論サークルみたいな感じですか?」
「そう、だな。サークルみたいなもんだと、俺も思ってた。あいつがあそこに通うようになって、そのギルドやThe Worldの話なんかを、よくするようになった。俺のギルドの活動にも興味を持ってくれたりして、まぁ正直かなり嬉しかったってもんよ」
 ようやく緒方は、手のひらに収めていたグラスを口元へ運んだ。
「…だが、そんなある日。本当に突然だった。………あいつが突然、妊娠したって、言ってきたんだ…」
 グラスがカランと音を立てる。緒方の氷が震え、少しずつ溶けだしていく。
「で、な、相手は誰かと聞くと、あいつ、なんて言ったと思う? いないって言うんだ……。意味、わかんねぇだろ?」
「それは本当に、妊娠していたんですか?」
「結果から言うと、娘の”体内に子どもはいなかった”、いなかったが………」
 緒方の視線は氷の塊にじっと注がれていた。彼の両手でぎゅっと掴まれたグラスはいつもより強い熱を感じたのか、氷をいびつに溶かし、水の軌跡がゆらゆらと琥珀色に混ざり合っていく。
「とにかく俺は、妻と娘と3人で病院に行った。すぐに診断してもらって、子どもがいないと分かった。俺は心底ほっとした。………ただ娘の身体の反応としては妊娠している状態だった」
「………えと、……それって?」
「………つまり、想像妊娠していた」
「想像、妊娠?」
「今時、珍しいだろ? 医者も言ってた。昔は後継ぎだなんだで、想像妊娠する女性は多かったそうだが………想像妊娠の原因は妊娠への強い渇望もしくは妊娠への恐怖。妊娠に対するストレスや思い込みが人の身体をそうさせるらしい」
「それで、娘さんは……」
「それが、想像妊娠だと告げたら、なんて言ったと思う? あいつ、”ああそう、やっぱりね” なんて言いながら、笑ってたんだ。呆れたように。まるで “信じちゃいない” といった様子で!」
 緒方の声は、溢れ出そうな感情を必死に堪えて大きく震えていた。
「俺はわけが分からなくて、俺らのことを弄んでるんじゃないかとも思った。でも娘はそんなことするやつじゃなかった。妹の面倒もよく見ていたし。何で急にそんなことになったのか、何が可笑しいのか、俺には全然分からなかった」
 優一はただじっと、緒方の言葉に耳を傾け続けた。
「だから俺は聞いたんだ。”何が可笑しいんだ?” って。お前はまだ15歳で、子どもを育てられるような大人じゃない。何でそんな風に言うんだって。怒鳴っちまった……」
 伝えるために淡々と確実に紡がれていた言葉が、感情の糸にずるりと引っ張られ、無造作に散らばり始める。大きな感情が彼の真ん中に鎮座し、それが全身からしとどに流れ出していた。指先はぶるぶると震え、もうこれ以上何もかもが溢れ出ないよう、己自身を必死に堪えているのが分かった。
「………娘はただ “ごめんなさい” と、ひとこと、言った。それからずっと口を聞いていないが………あいつ、いまだに “まるで妊娠している” って感じで振舞うんだ。それを見て、俺はたぶん、あの団体が娘に何かしたんだって思った。そうじゃなきゃ、こんな……!こんなことになるわけがないっ……!」
 止めどなく溢れる感情は強く激しかったが、それは優しく熟れた果実が押しつぶされたみたいに、悲しげに弾けた。そしてそれは、不確かで温かな暗闇の中に、そっと抱かれて消えて行った。

「……それで、その、それは、どんなギルドだったんですか?」
「……ヘンカイパン。汎神論派団体だ」
「ヘンカイパン?」

――――ヘンカイパン。
 それはThe Worldにある、汎神論をベースに活動する団体だった。The Worldはネットサービスとはいえ、現実とは違う別の世界観をもっている。いわばRPGのような、確固たる世界観があり、神や神話のようなひとつの物語をベースに構築されているネットゲームだ。しかしその物語を再解釈し、新しい価値観の元に活動するギルドもかなりの数存在する。それらはいわゆる新興宗教のような趣のものもあれば、サークル程度の気軽なものまで様々だった。そのうちのひとつ、汎神論派系統の団体がMotherに対して過剰反応しているという噂は既に調べ済みだった。
「でも、彼らの活動は月の樹なんかと比べたら凄く小さいし、影響力も少ない。それこそサークル規模を出ていない。むしろ汎神論派の巨大ギルドといえば、エチカの方が活動規模が大きい印象があるけど…」
「やっぱお前さん、詳しいんだな。もう調べ済みか?」
「以前、汎神論派ギルドに関する記事を書いたことがあるんです。その時に嫌というくらい調べましたので……。でもヘンカイパンは、あまり大きなギルドではないし、あまり目立った活動をしていなかったので詳しいことは分かりません」
 「汎神論」とは、”世界自体が神の一部である”という考えを元に展開された哲学的な考え方のひとつだ。世界の全てのものはそれ自体が神であり、神の一部であるという価値観。神的存在と、世界や自然とに断絶を設けない宗教・哲学上の立場をとる思想で、多神教、アニミズム、自然崇拝と区別なく用いられることもある。
 優一が記憶を手繰り寄せながら話をしている間、緒方はただ遠くを見つめているといった様子だった。話をどこまで聞いているのか分からない。彼の心はもっと別の問題にとらわれているのは間違いなかった。

「…なぁ森野。俺はどうすればよかったんだろうなぁ……」
 本当に全く何もかもを失ったサラリーマンみたいに、彼は濡れ細って小さく見えた。今までになく堪えて落ち込んでいる。
 よく緒方は優一に、自分が家族に対して素晴らしい夫になれていないことを嘆いていた。日々、編集長として締め切り追われ、休みの日にThe Worldに繰り出しては闘技場やバトルに心を燃やし、家のことはほとんど妻に任せきりだったという。しかし緒方とカナードで出会った時、非常に面倒見のよい大人だと優一は感じていた。彼が家族をないがしろにしていたとは到底思えないのだった。
「俺は、仕事して飲んだくれて、The Worldに入り浸るようなダメ親父だったから。やっぱりそういうところが悪かったのかもしれないな……」
「……緒方さんが、そんなじゃ、駄目ですよ。緒方さんが悪いなんてことは、ないと思います。僕は緒方さんがご家族とどんな風だったかは分かりません。でも、娘さんの想像妊娠が緒方さんのせいだとは思いません。そうやって自分のせいだと思い込むことが良いことには思えません」
 言葉をひとつひとつ丁寧に選ぶ。メールを送るときに、いつも何度も自分の言葉を読み直して、画面の向こう側にいる人のことを考えた。何が今、相手にとって必要な言葉なのかを、優一はいつも丁寧に考えていた。相手に寄り添う姿勢を見せるべきなのか、解決策を考えて示すべきなのか、ただひたすら耳を傾けるべきなのか。そして緒方は、優一が紡ぐ言葉それ自体をただ欲しているようだった。
「………そうだよな。わりぃ……俺が、しっかりしないとな……」
「昔、The Worldで緒方さんに声をかけてもらった時のこと、僕ずっと覚えてますよ。それに緒方さんが “ハセヲ” にしたことも。だから、僕は緒方さんが僕の想像に及ばないくらいひどく変わっていたとしても、ただ、信じているだけです」
「………はは、お前さん、こういう時、よく言うよなぁ……いつも。まったくよぉ……」
 緒方と再会してから、何かと話を聞いてもらっていたのはむしろ優一の方だった。15歳も年上の緒方は、何一つ不安も不満もないかのような様子で優一の迷い吹き飛ばし、飄々と導いた。緒方の言葉は、優一のまだ幼くて臆病な世界を突き付けるかのように軽やかだった。そんな彼が、ひっそりと抱えていた暗闇を、いよいよといった様子で零し始めている。誰にだって少なからず閉まっておきたい思いがある。それはもう痛いほど知っていた。だからこそ、それを目の前に並べ出した時、優一はただ真剣に向き合うと決めていたのだった。
「俺は、勝手にヘンカイパンを疑っているが……全然関係ないかもしれない。俺の家族の問題かもしれない。でも、俺には、全然分からないから………とにかく、あの団体を調べてみたいって思ってるんだ」
「……そういうのは、良いと思います。僕も手伝いますよ」
 思い込みで何かを疑うのは必ずしも良いことではない。それでも、今の緒方が何か真実を知りたいと思うのであれば、何かを強く疑ったり、信じたり、真剣に向き合うということは良いことに思えるのだった。優一は緒方が情動的な人間であるということを知っていたが、むやみやたらに人を傷つけるような人間ではないと理解していた。
「それにしても不思議な感じですね。あの時からもう10年も経っているなんて」
 ネットで、ゲームで、偶然に出会っただけのふたり。生まれた場所も、年齢も、性格も考え方も全然違うけれど、どうしてかいつのまに、こんな場所で酒を飲みながら、心の片隅をそっと見せ合っている。こんなことは今の時代当たり前の普通のように語られ始めていたが、時々ふと、不思議な気持ちになるのだった。

「そういえば森野、医者からひとつ聞いた話がある。実はこういった女性患者、ここ数か月で増えているって話だ」
「そうなんですか? 初耳です」
「あんたが追ってるマザー……妊娠したPCって噂じゃねぇか。関係ないとは思えない。それに、あのヘンカイパンとかいう団体もきな臭い。俺も出来る限り調べてみるが、あんたの方が、そういうの得意だろ?」
「……そうですね。それが僕の仕事ですから」
「悪いな、こんな話しちまって」
「いいえ、大事な話じゃないですか。むしろ、僕で良かったんでしょうか………」
「………さて、な。どうだろうな。でも、じゃあ、一体誰に、こんな話をすればいい?」
 彼はひどく心もとない様子を浮かべていた。大きなしゃがれ声も、豪快な笑顔も、真夏のように煌めく彼を知っているからこそ、彼の瞳に浮かぶ小さな迷いが、真実のように暗く照らしていた。

 どうしてだろう。この世界では静かな孤独を抱えている人が多すぎる気がしてならない。それに初めて気が付いたのは、あのマク・アヌの港で漆黒のマルチウェポン “ハセヲ” に出会った時だ。
 自分の肩を自分で抱くことしかできない孤独を、いつまでも深く抱きしめている。優一はそんな人たちに手を差し伸べたいと思ってやまなかった。でも、それが壮大な夢であり、絵空事の偽善でしかないと気が付いたはいつだったか。

「ほら、もうちょっと飲みましょう。こんな美味しいお酒なら、いつでもご一緒しますよ」

 氷がすっかり小さくなっている。優一はウェイターに同じ酒を注文する。
 今、自分に出来ることに小ささに、優一は唇を嚙み締めずにはいられなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
第4話 Coming Soon…

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

※森野優一と緒方幹久イメージラフ

 

森野優一の調査手記① Morino’s memorandum of investigation①

 

●C.C.事件
カナード大量未帰還者事件(Canard Coma Case)通称C.C.事件及び、C.C.C.と呼ばれる。2026年に、一大ギルドの1つ「カナード」で起きた大量未帰還者事件。カナード専用エリアにいた、約20名のプレイヤーが集団で意識不明となり、内3名のみ1時間以内に意識を取り戻したが、残るプレイヤーはいまだ昏睡状態が続いている。一時的にエリアは封鎖されたが、2027年現在、カナードは活動、エリア共に復帰している。

●PC大火(緒方幹久)
The World R:2時代から同型PCを使い続ける古参プレイヤー。闘技場覇者だけが入れるギルド・イコロの創始者でもあり、全バージョン、全闘技場の覇者でもある。現バージョンでは、闘技場参加者(闘士・ファイター)育成に力を入れており、心身共に強いファイターとして社会的に自立したPCの育成を目指したファイター専用ギルドも運営している。非常に若者に対し教育熱心で、ギルド参加者からの信頼も厚い。リアルは格闘雑誌の編集長。13歳と15歳になる娘がいる。

●The World
現バージョン。通常は、R:1やR:2などバージョンを示す符号がついていたが、現バージョンには符号がない。ゲームからサービスとしての確立を明確化するためと言われているが真意は不明。

●Mother
妊娠したPC、赤子を抱くPCなど様々な目撃証言のあるPC。C.C.事件現場の他、いくつかの事件現場で姿が報告されている。詳細は調査中。

●ヘンカイパン
汎神論団体。参加者は30名ほどで小規模ギルドに属する。今までに目立った活動はしていないが、定期的に汎神論に関する論文を出していることから、大学関係者が在籍している可能性が高い。緒方の娘がそこに属している。
ヘンカイパンとはギリシャ語で「一にして全」という意味。世界のすべてが神であるという汎神論の世界観を表す語。