ジョセフは今、グリニッチビレッジに位置するニューヨーク大学の図書館に来ている。基本的に会員制図書館のため、誰でも入れるのは吹き抜けのエントランスまでだった。しかしさすがは大学図書館。広いにも関わらずエントランスまできっちり暖房が効いている。外はちらちらと雪が降りだす程度には冷え込んでおり、寒さを防げるのだけでも非常にありがたい。
なぜ、大学の図書館に来ているかというとヨシュアと待ち合わせをしているからだ。時計を見ると盤面に一本の真っ直ぐな線が出来ようとしている。午後六時。そろそろ約束の時間だ。
なぜ、ヨシュアと待ち合わせをしているのかというと、それにはちょっとした経緯がある。
――—――話は今から一カ月ほど前にさかのぼる
年が明けて三日経った日。ジョセフはスモーキーと久しぶりに会う約束をした。二人はカフェ・ニューエイジで待ち合わせした後、行きつけのレストランへ向かった。スモーキーは二十年もの付き合いになる旧友で、波紋の戦いを知る唯一の友人でもある。しかし彼はシーザーに会ったことがなかった。スピードワゴンや母親のリサリサ、そしてスージーQがシーザーについて色々なことをスモーキーに話してはいたが、実際に会ったことがない以上彼の中では想像上の人物に過ぎず、ジョジョの戦友でありかけがえのない “親友” という認識だった。そんなスモーキーとの再会は二年ぶりということもあって、お互い積もる話がたくさんあった。このニューヨークで日々変化していく不動産事情、ホリィのこと、各州で起きている人権問題、そしてスモーキーの恋愛話。兎にも角にも話題は盛りだくさんだった。気がつけばワインボトルが五本は空になっていて、二人はすっかり上機嫌だった。そんなだいぶ酒も深まってきた頃、ジョセフはようやくヨシュアの話をした。ヨシュアがシーザーにそっくりなこと、そして彼と最近仲良くしていることを伝えると、スモーキーは目を丸くして驚いていたが、彼はヨシュアとの出会いを歓迎し、ジョセフの話を親身になって聞いてくれた。
「実は俺、ヨシュアにシーザーを投影してしまうんだ」
ジョセフは初めてそのことを他人に話した。ここ数カ月そのことに心底悩んでおり、スモーキーだからこそようやく打ち明けることができたのだった。しかし、スモーキーからしてみれば大切な親友にそっくりな人物に投影した感情を持つことは仕方ないと思ったようで、何も悩む必要はないと助言した。しかし、ヨシュアに向ける感情はただの “親友” に向けるべきものではないのだ。結局その感情についてはスモーキーに開示することができなかった。
スモーキーはジョセフの相談に親身に乗り、解決策をいくつも考えてくれた。シーザーを投影してしまうことを黙っているのが辛いなら、シーザーがいかに大切な友人だったかをヨシュアに話し、事実を伝えればいいと明るい口調で語った。それは非常にスモーキーらしい誠実な考え方だった。シーザーがスモーキーと同じようなかけがえのない “親友” という関係だったならば、間違いなくヨシュアを家族や友人に紹介したし、ヨシュアにシーザーの全てを伝えていただろう。しかし、ジョセフはそうすることが出来なかった。
晴れない気持ちを抱えたまま、日が沈む頃にスモーキーと別れた。酒には強いという自信があったが、まるで焼け酒のように何時間も飲み続けていたせいか、珍しく頭がふらふらしている。酔っ払ったジョセフを心配してタクシーを呼んでくれた優しいスモーキー。しかし逆に彼をタクシーにぶち込み、運転手にチップを握らせ車を見送った。走り出すタクシーの中で何やら叫んでいるスモーキーに飄々と手を振る。いつだって優しいスモーキー。でも、もしシーザーとの関係を知ったら今までと同じように接してくれるだろうか?
ニューヨークは自由の街だ。他の都市と比べたら人々の考え方、物事の受け入れ方が寛容だと言える。そのため自由を求めて様々なバックグラウンドの人間が集まり、学問はもちろん、科学や芸術、人々のマインドに新しい価値観を生み出していた。でもそれは綺麗なところだけを見た上辺の話。実際に人々に染みついた考え方はなかなか変わらない。一歩路地裏に入れば飢えた黒人が小銭を求め、窓からは暴力的な悲鳴が聞こえてくる。表向きマイノリティーの人間を受け入れる場所が増えても差別的な事件は後を絶たない。結局彼らは息を潜め、事実を隠しながら暮らすのがほとんどだった。人々の価値観が大きく変わったという確信がない限り、口にできないことはたくさんある。ジョセフはシーザーの尊厳を傷つけるようなことは絶対に口にしたくなかった。しかし時々、誰にも共有できない重圧に押しつぶされそうになる。
いつのまにか目の前に、あの色面の絵画が立っていた。それは何かを見透かすかのように真っ黒で吸い込まれそうな色を放っている。ジョセフは目を反らしてそいつの横を通り過ぎた。
とにかく今はヨシュアに会いたかった。誰にも話すことの出来ない思いが溢れてしまいそうでたまらなかった。たぶん酒のせいだ。
その後の記憶はあまり覚えていない。いつの間にか眠ってしまい、目を覚ますとカウンター席にいて、ヨシュアが隣で大学のレポートを書いていた。彼は小一時間ほど、ジョセフが目を覚ますまで待っていたようだ。ジョセフはヨシュアに土下座して謝り、その後すぐ帰路についた。
そんなことがあったから、しばらくカフェに行くのは控えることにした。ヨシュアは「気にしてませんよ」といつもの調子で言ってはいたが、内心呆れかえっているかもしれない。そう思うと、何食わぬ顔で店に行くほど図太くはなれなかった。
一週間ほどニューエイジには行かず、適当なコーヒー店であまり美味くはないコーヒーで朝をスタートさせ、可能な限りヨシュアのことを考えないようにして過ごした。もう20年近くシーザーを心の奥底に仕舞って生きてきたのだ。わりとそれは上手くいった。しかし今日はオーダーミスをされ、注文したコーヒーが全く違うコーヒーだったせいで気分が最悪なのだ。そのせいか、いよいよカフェ・ニューエイジに行きたい気持ちが募りに募ってしまい、あの日飲んだアメリカーノ味がフラッシュバックし始めたのだった。そういえばあの日眠っている間、シーザーの夢を見た気がする。傍にヨシュアがいたせいかもしれない。
ジリリリリ――—―ジリリリリ――—―
ごちゃごちゃ考えている隙に、仕舞っておくべき記憶にすっかり捉われてしまったようだ。銀の呼び鈴によって現実に引き戻される。
――—ジリリリリ――—―ジリリリリ――—―
オフィスにある個人電話が無遠慮に鳴り響く。この電話番号を知っているのは、家族とスピードワゴン財団のごく一部の職員、スモーキー、そしてヨシュアだけだ。
「アー、これはたぶん……」
予感というのは大体当たるものだ。ジョセフは覚悟を決めて呼び鈴を取った。
「もしもし?」
「ジョースターさん、ですか?」
聞き間違えるはずのない声が、優しく鼓膜を揺らした。
「ヨシュア。久しぶりだな。どうした?」
しかしあくまで平静を装う。
「いや、最近お店にいらっしゃらないので……。その、元気かなって思って……」
これが営業の電話だったら思わず椅子から転げ落ちるような挨拶だが、相手はヨシュアだ。そのあまりにも不器用すぎる言葉に思わず頬が緩んだ。
「元気元気!もしかして風邪でも引いてると思った? 最近ちょっと仕事が忙しくてさ。寄る時間がなかったんだよね」
「そうですか! ……それなら良かったです」
ヨシュアはその一言を言うなり黙り込んでしまった。どれくらいの沈黙があっただろう。少なくとも一瞬電話が切れてしまったのかと疑うくらいには長い長い沈黙だった。かと言って正直なところ、ジョセフもかける言葉が見つからず、すっかり頭の中は真っ白だった。
「……あ、あの、勘違いだったらいいんですけど」
沈黙を破ったのはヨシュアの方だった。
「もしこの前のこと気にしてるなら、その…… 俺は本当に、全然気にしてないんで……」
思いがけない単刀直入さ。頭が真っ白なのはお互い様かもしれない。
「ははは……。さすがヨシュア。バレてたか。うん。それなら白状するけど、そう。ちょっと迷惑かけすぎちゃったかなと思って。ほら、ヨシュアに気を遣わせたら悪いからさ。行くの、辞めてたんだ。本当は仕事なんかぜーんぜん忙しくないし、駅前のコーヒー不味くて超最悪だし」
ヨシュアの発言に緊張の糸が切れたのか、ペラペラと言葉が出てくる。駅前のコーヒー店の愚痴を自分でもびっくりするくらい饒舌に語りだした。
「だったら……! ……だったら、いつでも来てください」
「……うん。ありがとな。ヨシュアがいいならまた行くよ」
「絶対ですよ」
「もちろんさ。それに、やっぱりこの前のお詫びもしたいし。そうだな、何か欲しいものある?」
「そんな。欲しいものなんて無いです。それにこの前、頂いたばっかりじゃないですか」
ヨシュアにしてあげられることは限られている。ジョセフはそれを強く自覚していた。とはいえ、いつも何かを買う提案くらいしか出来ないのは、まるで自分が金で全てを解決しようとする大人みたいで、少し気後れしていたのも事実だった。
「そう? それじゃ、食べたいものとか、行きたい場所とかでもいいよ」
「だからそういう問題じゃ………。あ、でも、行きたいところならいっぱいあります」
ヨシュアがようやく乗り気な様子を見せたので、ほっと胸を撫でおろす。
「そうか。それじゃ、それに付き合うってのはどうかな?」
「はい!それなら、嬉しいです。ありがとうございます!」
嬉々とした声に癒されつつ、日程を確認し電話を切る。ジョセフは速やかにカレンダーに “ヨシュア” と文字を書き込んだ。カレンダーを眺めながらその日まであと何日か数えて待ち遠しくなる。
「俺、結構ヤバいかもなぁ……」
たかだか一本の電話で、もうすっかりヨシュアに会いたくなってしまっている自分に、思わず頭を抱えた。
◆◆◆
――—―そんな出来事があって何日か経った二月上旬
約束通りヨシュアの行きたい場所に同行することになった。どうやらグリニッチビレッジにある老舗のライブハウスに行きたいらしく、仕事終わりに彼の通うニューヨーク大学で集合となった。大学はグリニッチビレッジエリアの真ん中にあり、周囲には劇場やバーがひしめいている。ニューヨークを代表するコロンビア大学やハンターカレッジなどは都市部の中でも閑静なエリアにあるが、このニューヨーク大学はまさに繁華街のど真ん中にあり、多感な若者たちに非常に人気な大学だった。
「遅くなってすみません……!お待たせしました!」
ロビーを行き交う学生たちに紛れてヨシュアらしき人影が現れる。黒いコートにグレーのセーター、薄紫色のマフラーを巻いていて、いつも見るヨシュアとは少し違う雰囲気だった。思わずまじまじと見つめてしまう。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、なんか今日は大学生?って感じだなと思って」
「そうですか? 逆にいつもはどんな感じなんですか?」
「うーん? バリスタって感じ」
「あはは。だからそれ、どんな感じなんですか」
ヨシュアは顔一杯に嬉しさを表して笑った。
「今夜何か食べたいものあります?」
「今日はヨシュアの行きたいところに行く日だろ?」
「そうですけど。ジョースターさん、あんまりこのへん来ないんでしょう? せっかくですし、行きたいお店に行きますよ」
行きたい店と言われてもあまり思いつくものはなかったが、いつぞやの週刊誌に美味しいピザ屋ランキングが出ていたのをジョセフは思い出した。
「なんかこの辺に、ピザ屋なかった? 有名な」
「あ、アーティチョークピザですか? ありますけど。そんなジャンクフードでいいんですか?」
「そういうのがいいんだよ。一度食べてみたかったんだ!」
ニヤリと笑って見せる。するとヨシュアは何の混じりけもない明るい顔をして「それじゃあそこに行きましょう」と言った。
大学から繁華街へ行く途中、ワシントンスクエアパークと呼ばれるシンボリックな公園を横切る。公園は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンの名を冠しているのにも関わらず非常に暗く、中央の噴水広場は売春や麻薬取引をする若者がたむろしていた。あまり治安が良いとは言えないこの場所のすぐ隣にニューヨーク最大規模の大学があり、トレンドを生み出すライブハウスがあり、マイノリティーたちが集まるバーがひしめき合っている。ストリートの数字が一つ違えば、見える世界がガラリと変わる。まるでサラダボウルのように、この場所にはたくさんの人が集まっていた。
「ここですよ、アーティチョークピザ」
ヨシュアが指し示すと、大きなアーティチョークの絵が描かれた黒い看板が見えてくる。看板のデザインからしてアーティチョークが売りだと一目でわかる潔さだ。カウンターには焼きたてのピザがずらりと並び、お目当てのアーティチョークだけでなく、クラブ、ペペロニ、ミートボールにマルゲリータなど様々なピザが並んでいる。
「うまそー!どれにするか迷うな!」
「どれも美味しいですよ」
「ヨシュアはよく来るの?」
「わりと」
にっこりと微笑むヨシュアはいつになく楽しそうだった。ひとまず当初の予定通りアーティチョークのピザとヨシュアお勧めのマルゲリータの二つを注文する。
「うわ、でか……」
カットされたピザは30センチは越える大きさで、一枚で十分なボリュームだった。ホワイトピザの芳醇なチーズの香りが鼻をくすぐり、ジョセフは期待に胸を膨らませる。
「見た目からして美味そうだな」
念願のピザを手に取り一気に頬張る。とろけるようなチーズのコクが口いっぱいに広がり、それはピザなのようにグラタンのような非常にふくよかな味わいだった。
「ン! なんだこれ、すごく美味い!」
一口ごとに舌が喜ぶ。子どもが大喜びしそうな甘味と旨味たっぷりのチーズでありながら、しょっぱ過ぎず、ストリートピザ特有の薄型ピザの体裁をしながら食べ応えのあるボリューミーなパン生地。そこにアーティチョークのほのかな酸味が加わり、全てのバランスが絶妙だった。
「気に入ったみたいですね」
ジョセフが食べるのを見届けてからヨシュアはマルゲリータにかぶりついた。
「というかすみません、こんな場所で立ち食いさせちゃって。やっぱり公園まで行きます?」
「いやいいよ。というか公園の方が危なくない?」
「そうなんですけど……」
「ニューヨークのピザは立ち食いが基本だろ?」
手をべたべたにしながらむしゃぶりつく立ち食いピザなんてものを、もしシーザーが見たらきっと発狂するに違いない。スージーQもニューヨークのこのテイクアウト式ピザを見ると嫌そうな顔をする。確かにイタリア人はピザをナイフとフォークで食べるくらいだから仕方ない。
「ヨシュアはやっぱ外食多いの?」
「ええ、まぁ。正直一人暮らしを始めてから食事作りがちょっと大変なんですよね」
ヨシュアが恥ずかしそうに話し出すと、ジョセフは興味津々に聞き入った。
「大学行ってバイトもしてたら、自炊する時間なんてないだろ? 大変だよな」
「そうなんですよ。だからこの辺のピザにはよくお世話になってて……」
「でも自炊すると、自分好みに料理が作れて良くない?」
ジョセフは手元で順調に小さくなっていくピザを見つめながら指を舐めた。
「確かにそうかもしれませんけど。というかご自宅のご飯、口に合わないんですか?」
「いや、非常に美味い。美味いんだが…… なんというか、健康的過ぎるというか」
ジョセフはスージーQの手料理を思い浮かべる。朝市場で買ってきた無農薬野菜のサラダ、イタリアから取り寄せたバージンオイルとバルサミコ酢で仕立てた白身魚のカルパッチョ、焼きたてのライ麦パン、それから――—―――—―
「あー、非常に健康的だ。だからまぁ、時々はこんなジャンクフードも食べたくなるんだよな……」
「確かに、こういうのもたまにはいいですよね。俺はむしろ家庭料理の方が恋しいけど……」
二人は他愛のない話を続けた。
「ね、ヨシュアのやつ、ちょっと食べていい?」
「いいですよ。そのつもりで買ったんで」
お互いのピザを交換してかぶりつく。そのマルゲリータはどこか懐かしい味がした。優しいトマトの甘みと爽やかなチーズの洗練された旨味が口の中にとろけるように広がり、文句なしに美味かった。
「うん。これも美味いな」
「美味しいでしょ」
ヨシュアは満足げな笑顔を浮かべていた。今日は随分と上機嫌な気がする。
「ジョースターさん、ここ、ついてますよ」
ヨシュアが頬を指差す。ジョセフは思わず頬をぬぐった。しかしヨシュアは「逆ですよ」と反対の頬を指すので、とりあえず頬から口元にかけて少し大げさにぬぐってみた。そして仕上げに唇をペロリと舐めて、確認するようにヨシュアを見る。
「うん。取れたみたいですね」
ヨシュアは子どもを甘やかすような目をしていた。その表情には見覚えのある優しさが溢れていて、ジョセフは思わず頬を赤らめた。
◆◆◆
「雪、強くなってきましたね」
お目当てのピザを食べ終えた頃、あたりはすっかり夜の色が深まっていた。それを歓迎するかのように夜の空に雪がふわふわと楽し気に舞い始める。しかしそんな雪の宴に臆することなく、当初の予定通りヨシュアご希望のライブハウスに向かった。ピザ屋から北に向かってウェスト・フォー・ストリート沿いを進んでいくと、先ほどの繁華街とは少し異なる賑やかさが漂ってくる。そこは男女のカップルだけでなく、男同士や女同士の二人組がバーや公園に集まって和やかな雰囲気で過ごしていた。このクリストファー公園周辺は、同性愛者やマイノリティーの人間が集まる場所と聞いたことがある。時々どこからともなく口笛や野次が飛んでくるのが気になったが、目を向けないよう注意しながら歩を進めていく。
「こういう場所、嫌いですか?」
周囲の雰囲気に少し気後れしているとヨシュアがそっと腕を引いた。
「いや、大丈夫だ。知り合いにもマイノリティーの人はいるし。ただここまでオープンな場所はあんまり来たことがなくて……」
「俺も初めて越して来たときはびっくりしました。でも最近は慣れましたね。こういう場所って意外と美味しいレストランとかお洒落なクラブも多いんで、友達とよく遊びに来るんです。女の子にも出会えますしね」
ヨシュアは少し照れくさそうに年頃の青年らしい顔をしながら話を続けた。
「でも今日行くライブハウスは、そういうお店じゃないですよ。純粋に良いミュージシャンが集まるスペースらしくて。でもちょっと敷居が高いというか……」
少し歩くとアーサーズ・タバーンと書かれた小さなライブハウスが見えてくる。周囲はこじゃれたレストランが軒並んでおり、新しいものと古いものが小気味良く混ざり合った雰囲気の場所だった。
「ここのジャズを聞いて見たかったんです」
ライブハウスの扉を押し開くと、そこは心地よい照明に包まれ、ステージからはジャズの旋律が滑らかに響き渡ってきた。二人は期待と興奮の入り混じった気持ちで店内に足を踏み入れる。ステージには熟練のミュージシャンたちが座り、楽器に触れながら静かに微笑み合っていた。ピアノの鍵が奏でるメロディが空気を揺らし、ベースとドラムがウォーミングアップに心地よいリズムを刻んでいる。今にもジャズの魔法が始まりそうな雰囲気だ。
「カウンター席でいいですか?」
ヨシュアの問いかけに頷くと彼はカウンターのハイチェアを引いた。しかしその手はぎこちなく震え、椅子の足がガリガリと大きな音を立てる。
「……なんかこういう場所って、緊張しません? 大人が来る場所っていうか……」
ヨシュアは気恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「音楽を聴くのに大人も子どももないさ。ただ楽しめばいいんだよ」
するとジョセフの言葉を歓迎するかのようにベースの温かい響きが会場を包み込み、ドラムが微細なリズムを刻み始める。そして、その空気の色を見極めるようにしてゆったりとサックスが加わり音楽の舞台が華やかに始まった。奏で合う音が情熱と切なさを込めて語りかけてくる。演奏者たちは互いに息を合わせ、音楽を通じて会話しているかのようだった。
「ミュージシャンってすごいよな。お互いに言葉をかわさずとも、音楽で何を考えてるか分かるんだぜ?」
「……それは、羨ましいですね」
音楽はまるで言葉を超え、感情の奥底に触れていくかのように二人の間を流れた。ジョセフは注文したドリンクを手にしながら演奏に聞き入る。ジャズの旋律が空気を支配し、煌めく音符が人々の心を引き寄せる。ピアノの鍵盤から生まれる音は、まるで星々が輝くような美しさを持っていた。
サックスのソロが始まると、ジョセフはその音に引き込まれた。その音色は力強くも繊細で、記憶の奥底に触れるかのように心を震わせた。ジョセフは目を閉じ音楽に身をゆだねる。
「俺さ、シーザーと約束してたんだ。全てが終わったら、色んな場所に行こうって……」
ピアニストの指先がキーボードを舞い、ベーシストの手が弦を撫でるたびに、秘められた気持ちが音となって空気中に広がっていく。ステージから立ち上がる旋律は人々の感情に橋を架け、互いの思いを音楽に託しているようだった。
「だから、こんな風にライブを聞いたり、一緒に飯食ったり、それだけで嬉しいんだ。ごめんな……」
「なんで、謝るんですか?」
「だって。俺、ヨシュアじゃなくて、シーザーと一緒にいる気になってるんだぜ?」
音楽は次第に静かに淡々とした旋律へと変わっていく。会場全体が一体となりそこには他に何もないかのように感じられた。
「俺はそれでも構いません。ジョースターさんが嬉しいなら、それで十分です」
明け方に吹く穏やかな風のように、ヨシュアの顔には秘められた喜びが静かにあふれていた。ジョセフは思わずその表情に見入った。
時間がゆっくりと過ぎ、ジャズの旋律が二人の時間に深く染み込んでいく。演奏が終わる瞬間、しばらく沈黙が空間を支配した。やがて拍手が湧き起こり、感動した観客たちが賞賛の言葉を口にし歓声をあげる。ジョセフも拍手を送りながら、音楽に感謝の意を捧げた。
「いい演奏だったな」
「はい。ジャズって初めてだったんですけど、本当に感動しました」
ヨシュアはまだ余韻が抜けないようで、少し興奮気味な様子だった。
「すみません、俺ちょっとバスルーム行ってきますね」
程なくして席を立つヨシュアを見送る。演奏後の会場は満足気で、非常に穏やかな雰囲気が漂っていた。すると、ヨシュアが座っていた椅子に見知らぬ男が腰掛けてきた。
「おい、そこは……」
「よう、兄ちゃん。今日は楽しんでるみたいだな」
背の高いスーツ姿のその男は品の良い笑顔を浮かべていたが、どことなく信用ならない雰囲気が漂っていた。
「そこは友人の席だ。すまないが、座るなら別の席に行ってくれないか」
不快感を示しつつも極力丁寧に対応する。しかし男は口角を上げるばかりで動こうとしない。
「おい!」
「お前、あの子狙ってるんだろ? 顔に書いてあるぜ?」
「何言って……」
「でもまぁ、あの子も満更じゃなさそうだったし。俺さぁ、いいもん持ってんだ。こ、れ。使ってみる?」
男は胸のポケットから小さな袋を取り出し、ジョセフの手元に滑らせる。それは何かの薬物のようだった。
「貴様……!」
「おっと乱暴はなしだぜ。俺からのプレゼントだよ。いい夢見れるぜ? それとも俺の勘違いだったかな?」
「ふざけるな!」
ジョセフが声あげて威嚇するも、男は飄々とした顔で全く気にしていない様子を見せた。
「俺の相方はさっきの金髪の子がタイプみたいなんだけどさぁ、正直俺はお兄さんみたいな人がいいんだよね。というか、おにーさんそんな身体でゲイじゃないの? そんなことないと思うんだけどなぁ?」
――—―抱かれたことあるんでしょ?
耳元で囁かれる。
ジョセフは目の前が真っ暗になった。
次の瞬間、席を立ちあがりその男の首を掴みあげていた。会場に引き裂くような女の悲鳴が響き、不快なざわめきが沸き起こる。
「ジョースターさん……!」
その声にハッと我に返る。締め上げていた首を離すと、男は床に倒れみ、激しく咳込んだ。
「ジョースターさん……! 一体何が……」
ヨシュアは不安に怯えたような表情でジョセフを見た。会場にいる人間がジョセフとヨシュアを見ては何か耳打ちしながら話している。全てが最悪だった。
「なんでもない。もう出よう」
ジョセフはバーテンダーの男に通常の3倍以上のチップを握らせる。バーカウンターで起きたことの一部始終を見ていた彼ならこの状況の全てを理解しているはずだ。チップを持たせた手を力強く握り、睨むように目配せすると、男は気怠そうなため息をついて出口を指差した。後は彼に任せればよい。誰よりも一番面倒事を避けたいのは店側なのだ。
「ジョースターさん……?」
ヨシュアの手を取り店を後にする。まるで後ろから指を差されているかのように、会場は不快にざわめいていた。
それから1ブロックほどヨシュアの手を引いて歩いた。雪が二人の肩を無遠慮に白く染める。街角のショーウィンドウに自分とヨシュアが映りこんでいた。それはごくごく普通の男が二人並んでいるだけの風景だった。少なくともジョセフの目にはそう見える。二人の関係は? 友人に見えないのだろうか? ジョセフにはもうよく分からなかった。
「……ジョースターさんは、悪くないですよ」
ぽつりとヨシュアが呟く。その言葉に、黒い怒りが渦巻いた。思わず声を荒げる。
「何を根拠に?」
拳を握りしめてその怒りに耐える。
「お前は何を見たんだ?」
更に詰め寄るとヨシュアは銃声を聞いた動物のように怯えた顔で唇を震わせた。
「……な、何も見てないです。戻ってきたら、すごい騒ぎになってて……」
「じゃあ何も知らないじゃないか!俺が悪くないかどうかなんて分からないだろ!!!」
「す、すみません……」
怒りを逃がすため握っていた拳を路上の壁に打ちつける。脆くなっていた煉瓦が鈍い音を立てた後、粉砂糖みたいにボロボロに砕けた。突風のように放たれた怒りは、ヨシュアでもあの男でもなく、心の暗礁に向けられたものだった。
「でも、ただ、あ、あの人は悪い人に見えたので……」
「悪い人ねぇ…… それじゃ俺は? いい人に見えンの?」
意地悪く口角を吊り上げながらヨシュアを睨んだ。ヨシュアは戸惑いの表情を隠すことなく寒空の下に立ちすくんでいた。
「……見えます。俺には」
「……そっか」
その言葉に思わず自嘲する。お前のことを下心たっぷりで見ているのに?と口の中に湧き出た言葉を行き場のない思いと一緒に飲みこんだ。
「ジョースターさん、あの……」
ヨシュアは何かを言おうとするが、それは言葉にならず白い息となって宙へ消えた。そんな儚い空気をぼんやりと眺め、ただ降りしきる粉雪を仰いだ。
「……ごめん」
ジョセフは完全に怯えているヨシュアを直視することができなかった。
「突然怒鳴ったりして、悪かった」
「いいえ。そんな……」
「ごめんな……」
立ちすくんでいると、ヨシュアがそっとコートの袖を掴んだ。ジョセフは恐る恐るヨシュアを見る。目が合うと、月夜の雲が晴れゆくようにヨシュアの表情が少し明るくなった。
「俺は大丈夫です。ああいうことってこのへんじゃよくありますし。それに、音楽は素敵だったじゃないですか」
少しでも手を伸ばしたら届きそうなくらいヨシュアはすぐ近くにいた。
「もう一軒、行きませんか?」
ヨシュアが提案する。確かにこのまま別れてしまっては今日が最悪のまま終わってしまいそうだ。しかしジョセフはもう誰にも会いたくない気持ちだった。自分たちが周囲に対してどのように見えるのか不安になっていたからだ。そしてヨシュアがこれ以上好奇の目に晒されるのは耐えられなかった。
「……そうだな。でも、このへんの店には、行きたくない……」
「それじゃ俺の家来ます? コーヒーくらいなら淹れられますよ」
ジョセフは胸がざわめいた。そしてそんな自分自身を心の底から呪った。沸き起こる感情をなんとか遣り過ごしたものの、ヨシュアの言葉に逆らうことは出来なかった。