Episode10. Marocchino エピローグ

 
 
 

「行ってくる」
「今日はバリスタのお友達と?」
「うん。彼と美術館に。夕方には戻るよ」
 彼女の頬にいつものキスを贈る。仕事の朝だけでなくこうして休みに出かける時ですら、彼女は健気に玄関に立って見送りをする。もし万が一、戻ることがなかったとしても後悔のないようにと言わんばかりに、二人は自然と扉の前へ集まる。
「行ってらっしゃい」
 スージーは微笑みながら門出の挨拶をする。そんな彼女に見送られながらジョセフはふと足を止めた。
「どうしたの?」
「そういえば、君の背中を見送ったことがないなと思って」
 その言葉に彼女は少し驚いた様子だったが、すぐにいつもの柔らかい笑顔を浮かべた。
「そうかしら?」
「サンモリッツに行くときも、君は見送っていた」
 ヴェネチアの港に彼女を一人残して、あの島で共に過ごした人間は皆、戦地へと向かって行った。あの時彼女はどんな気持ちで自分たちを見送っていたのだろうか。
「私はいつも見送ってばかりね」
 その言葉に、彼女が大きく手を振る姿が鮮明に思い出される。あの時は誰もが負けるはずがないと思い込んでいた。それは自信とか確信とかそんな理由ではなく、そう思いこまなくては前に進めないくらい必死だったからだ。しかし彼女だけはまるで真逆の感情を抱いていたのかもしれない。
「俺は見送るのは嫌いだ。どうしていいか分からなくなる」
 ジョセフは思わず唇噛んだ。スージーはそんなジョセフの手を取ってそっと見上げた。
「それでもあなたは、たくさんの人を見送るから。きっとこれからも見送り続けるから。だからあなたを見送るのは、私の役目なのよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものよ」
 優美な笑顔から紡ぎ出される彼女の言葉は単純なのに、いつもジョセフを納得させてしまう。
「行ってらっしゃい」
 彼女はひらひらと手を振った。

「うん。行ってきます」

 外に出ると空気は冷たいが、風には春の柔らかな匂いが混じっていた。道端の花壇には新緑が芽吹き、色とりどりの花が顔を出し始めている。ニューヨークには春が訪れようとしていた。
 ジョセフはいつもの道をいつもの足取りで進む。太陽が顔を出し、通りを行く人々に陽気な笑顔を届けている。冬の重いコートを脱いで軽やかな服装に身を包み、どことなく足取りも軽やかだ。街はいつもと変わらない日常の中で、春の優しさと活力に満ち始めていた。ジョセフは深呼吸をし、新しい季節の気持ち良さを心から感じた。
 しばらく歩くとメトロポリタン美術館の正門が見えてくる。美術館の階段は待ち合わせをする男女で晴れやかに賑わっていて、その中に見覚えのある青年が彫刻のようにすらりと腰を掛けていた。彼は始めからジョセフを見つめていた。
「こんにちわ」
「やぁ、元気だった?」
 ブルーのトレーナーに白いパンツスタイルの春らしい服装の彼は、どこか懐かしさを感じさせた。ジョセフが彼の服装や出で立ちに驚くことはなくなっていたが、いつも何度でも見入ってしまう。そして春の陽の下で見るその姿はいつにも増して綺麗だとジョセフは思った。
「そんなに見ないでくださいよ」
「そんなに見てたか?」
「身体に穴が空くかと思いましたよ」
「今日の服すごく似合ってる」
「その台詞、何回目ですか?」
「何回でも。だって似合ってるから」
 彼は心底困ったような溜め息をついたが、分かりやすい表情を描くことしか出来ない顔は、はっきりと照れくさいと物語っていた。
「昔みたいに驚かれるのも困っちゃいますけど、今も今で厄介ですね」
「惚気か?」
「惚気けてるのはどっちですか!」
 二人は二人の世界といわんばかりに、二人だけの会話をただ楽しむ。埋められない時間を少しでも取り戻すかのように。二人はじゃれ合うようにして美術館に入った。
「でもこうして出かけるの、久しぶりですね」
「そうか? この前フードマーケットに行ったじゃないか」
 ジョセフは浅い記憶を遡りながら、つい二日ほど前にグランドセントラルターミナルのデリカッセンで、彼の夕飯の買い出しに付き合ったのを思い出していた。
「あれは徒歩圏内なのでカウントなしです」
「ニューヨークなんて、大体徒歩圏内だろ?」
「そんなことないですよ。それに……それなら、もっと遠くへ行きましょう」
 彼の目には一切の迷いがなかった。ただ思っていることを悪気なく口ずさんでいるような楽しげな様子だった。
「そうだな。確かに、それもいいかもな」
 彼が投げた楽しそうな話にジョセフは乗ることにする。
「じゃあイタリアに行きましょう。あとジョースターさんの故郷にも行ってみたいです」
「イタリアはいいところだぞ」
「費用は全部ジョースターさん持ちでお願いしますね」
「おいおい、俺は金づるか?」
「そんなことはないですよ」
 無邪気に笑うのがまた意地らしい。
「それにしてもこの展示会、明日で最終日なんですね。ジョースターさんがこんなにこの作家のファンだとは知りませんでした」
「ファンってわけじゃないんだが…… まぁ見ておきたくてな」
 あの晩以来、ジョセフの前に絵画が現れることはなくなっていた。それがもう現れないような気はしていたが、もしかするとまた出てくるんじゃないかという曖昧な不安が残っていた。ジョセフは兎にも角にも、ただもう一度確認しておきたかったのだ。

 二人は絵画の部屋に足を踏み入れる。その時ばかりは久しく忘れていた “緊張” というものを思い出した。学校の出し物も、ピアノの発表会も、人前でスピーチをするときだって緊張したことはないのに、今日はどうしようもなく不安だった。柱の男と戦う時も武者震いが止まらなかったのを思い出す。ジョセフはあの時と同じくらい見えない緊張に支配されていた。

 一歩踏み出すたびにじんわりと汗が滲む。部屋の真ん中に立ち、ジョセフはいよいよ顔を上げた。

(久しぶり)

 心の中で語りかける。そこにはあの色面の絵画がいた。

(最近全然来てくれなかったじゃないか)

 ジョセフが語りかけても絵画は何も答えてはくれなかった。ジョセフは緊張を背に、展示会場の絵画たちを一つ一つじっくり見て回った。それらは非常に穏やかに、しかしどこかよそよそしく、社交辞令的な様子でジョセフの前で整列している。それは本来の適切な距離感を思い出した友人のように遠くからジョセフを眺めていて、僅かながら寂しさを覚えた。
 中央から時計回りにぐるりと一周回ると、最後の壁には絵が掛けられていなかった。前回来た時はそこに絵があったのだろうか? それとも始めから絵はなかったのだろうか? ジョセフは思い出せなかった。そしてその白い壁の片隅には、何やら文字だけが小さく書き記されていた。

 
 

It is really a matter of ending this silence and solitude,
of breathing and stretching one’s arms again.

(本当に重要なことは この沈黙と孤独を終わらせ、
 呼吸をして 再び腕を伸ばすことなんだ)

 
 

「ジョースターさん」

 自分を呼ぶ声が聞こえる。その声にジョセフは迷いなく振り返った。彼の瞳はまっすぐジョセフを捉えていて、ジョセフはその純粋過ぎる眼差しを抱きしめるように受け止めた。

「ヨシュア」

 静けさの片隅にヨシュアが現れたことでジョセフの中で閉ざされていた想いが大きく動いた。ジョセフは芸術なんてものを今でもよく理解できなかった。ただ、ずっと胸の奥底に渦巻いていた想いがどこかへ溶け出して行くのを感じた。ずっと昔に終わったこと。これからのこと。 
 ジョセフは色面の絵画の前に真っ直ぐ向き合った。その空間はおそらく、自分と世界の間にこれからも常に存在するはずのものだった。それらが眼前に存在したその最後の長い一瞬の間、ジョセフはこう思った。
 
 ああ、なんて美しいのだろう。

 それから絵画は、ジョセフの前から消えてしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

 
 
 
 
 
 
 
 

「あれ? この前のお店潰れちゃってますね」
 美術館を出た二人は適当なカフェを探していた。以前コンパナを注文した店の前を通りかかると、そこには改装中の看板が掛けられていた。
「あんまりウケなかったんじゃないか?」
「そうですね。確かにイマイチだった気がします」
 ヨシュアはあまり気に留めない様子でぐるりと辺りを見渡している。
「あ、あそこにもコーヒー屋さんがありますよ!」
 ヨシュアが指を差す先には、アンティーク調の見慣れない看板のカフェがあった。
「初めて見る店だな。 行ってみようか?」
「いいですね。新しいお店チェックするの好きなんですよ」
 ヨシュアは真贋判定でもするような目つきでニヤリと笑った。

 二人は店に足を踏み入れる。店は春の光を全て取り込もうといわんばかりにのびのびと開放されていた。大きなガラス扉のオープンカフェで、白いひさしが大きく舗道に向かってせり出している。ひさしの下の日溜まりの中にテラス席が並び、何組かの客が小さな丸テーブルを囲んで談笑しているのが見えた。
 ヨシュアはカウンターのメニューを眺めながら感嘆の声を上げた。
「凄い!フレッドエスプレッソ、コルタド、それにマロッキーノまでありますよ!」
「それはなんだ? 珍しいのか?」
「珍しいですね。まだ作ったことないんですよ」
「じゃあそれ、頼んでみたらいいんじゃないか?」
 ヨシュアは好奇心でいっぱいの目をしている。キッチンスペースから二人の様子を見ていた女性バリスタと目が合い、彼女は感じの良い笑顔でにっこり笑った。
「マロッキーノにしますか?」
「あ、はい!マロッキーノを2つ。あ、ジョースターさんも同じのでいいですか?」
「うん」
 ジョセフが微笑むとヨシュアは念を押してバリスタに注文した。ジョセフは穏やかな雰囲気の店内を見渡し、柔らかい日差しが差し込む窓際の席に腰を下した。しかしヨシュアはエスプレッソマシーンの前でカップを準備する女性バリスタの前から動こうとせず、何やらそわそわした様子だ。

「あ、あの……」
 ヨシュアがおずおずとバリスタに声をかける。 
「俺バリスタなんですけど、マロッキーノ作るところ見てていいですか? すごい気になってて」
「もちろんいいわよ」
 彼女は口角を綺麗に上げて、気のいい笑顔を浮かべた。ヨシュアはパッと目を耀かせながら彼女が作るコーヒーを夢中になって観察し始めた。彼女は作る行程一つ一つを丁寧にヨシュアに説明しながら慣れた手つきで一杯を仕上げていく。時折手元に集中してる視線がヨシュアへふんわりと向けられ、癖のある赤毛が可憐に揺れる。二人はとてもお似合いに見えた。

「すみません。思わず夢中になっちゃって」
 しばらく談笑していたヨシュアが戻ってくる。ほんのりと頬が赤い。ヨシュアの顔に春が訪れていた。
「それにしてもこの店、バイヴがいいですよね」
「そうだな」
 行き届いていない店はもちろん良くないが、気取りすぎの店も良くない。毎日でも通いたくなるような素朴さ、居心地の良さがカフェには必要だとジョセフは思っていた。木の風合いが温かく、壁には無頓着な様子でいくつものアートポスターが飾られている。会話を邪魔しない程度に低く小さく流されているのはローファイなレコード。温かみのあるピアノや緩やかなビートの音が混ざり合い、そこに、客たちのふわふわとした話し声や皿の音、グラスを重ね合わせる音などが水のように溶けこむ。
「いいなぁ、俺、こっちの店で働こうかな」
「いいんじゃないか?」
「でも、そうするとジョースターさんに会えなくなっちゃう」
「俺はこの辺に住んでるし、いつだって会えるさ」
「近いんですか?」
「歩いて10分くらいかな」
「めちゃくちゃ近いですね」
 ヨシュアは満更でもない顔をしていた。
「ミッドタウンってビジネス街じゃないですか。だからいつもせわしなくて…… こっちの方がゆっくりしてて客層も良さそうだし、同じ給料なら絶対こっちの方がいいですよ」
「じゃあ、さっきの娘に応募したらどうだ?」
 ジョセフはニヤリと笑う。
「そ、それは、さすがにちょっと……」
「大丈夫さ。バリスタとしての経験もあるんだし。それにさっき、いい感じだったぞ」
 ジョセフは面白いものを見るような目を向けた。
「ちょっと! からかわないでくださいよ!」
 ヨシュアの顔には桜が咲き満ちていた。

「何の話をしてるのかしら?」

 噂をすれば先ほどのバリスタがカップを二つ、テーブルまで運んでくる。

「とても仲がいいのね」

 にっこりと笑う彼女はやはり感じの良い雰囲気だった。案の定ヨシュアは顔を赤らめたまま、視線をどこか明後日の方へ向けている。
「実はさ、コイツがこの店を凄く気に入ったみたいなんだ。彼はバリスタなんだけど、転職先を探してるみたいでさ。どう? 今人足りてる?」
「ジョ、ジョースターさん!?」
「そうなの? まだこのお店は出来たばかりだから、いつも人が足りないのよ。オーナーに相談してみましょうか?」
 話が早い女は大好きだぞ!と心の中で拍手喝采しながらジョセフはヨシュアに目配せする。
「どうだい? ヨシュア」
 ヨシュアは呆気にとられている。
「あ、えっと…… えっと、人が足りないなら、ぜひ。ありがたいです」
 ヨシュアは俯きながら答えた。彼女はその言葉に明るく微笑んだ後、オーナーに確認する旨を言い残してカウンターへ戻っていった。

「ジョースターさん! なんであんなこと!」
「やりたいことがあるなら、すぐにやらないと」
「そうかもしれませんが…… これじゃまるで、俺に下心があるみたいじゃないですか」
「だって、あるじゃん」
「だ、だからこそダメなんです!」
「大丈夫。大丈夫さ。俺のカンがそう言ってる」
 取り乱すヨシュアが面白くてジョセフはわざとしたり顔浮かべた。ヨシュアは居心地の悪い顔をしたまま、何やらぶつくさ独り言を言いながら運ばれてきたカップに口をつけた。
「その時計、直ったんだな」
 ジョセフはヨシュアの手元で光る時計を見つめた。
「あ、はい。何件か修理できないって断られたんですけど、買った時計屋さんに持って行ったら直してくれました。あそこのお店凄くいいですよ」
 ヨシュアは腕から時計を外して陽の差すテーブルに置いた。それは傷や汚れも綺麗に磨かれ新品のような輝きを取り戻していた。
「綺麗だな」
 凛とした針が正しく時を刻んでいる。二人の時間は世界と同じスピードで動いていた。ジョセフは新しい時の中でヨシュアを眺めながらカップを口に運んだ。
「なんでちょっと照れてンの?」
「照れてないですよ」
 ヨシュアは耳元を羽で撫でられたみたいに、面映ゆい顔をしていた。
「ヨシュアも綺麗だよ」
「だから! そういうこと言うのはやめてくださいって…… それにその台詞、口にココアつけて言うもんじゃないですよ」
「ヨシュアもついてる」
「え!嘘!?」
 彼はぎょっとした顔で慌てて口元を拭い始めた。まるで都会の信号のようにコロコロとよく色の変わる顔だ。ジョセフも自分の唇をしっかりと拭った。二人はお互いの顔をまじまじと確認し合い、同時に吹き出して笑った。
「この、マロッキーノだっけ? 美味いな」
「美味しいですね」
「甘くて、濃厚で、最高だ」
 ココアとチョコレートとクリームの甘くて楽しい味わいの奥にエスプレッソの控えめな苦みが効いていて、洗練されたビターチョコレートのようだった。その黒い宝石のような一杯は少しだけ日常を特別なものにしてくれる。

「それ、気に入ってくれたかしら?」

 先ほどの彼女が戻ってくる。するとヨシュアは嬉しそうな顔でマロッキーノの感想を饒舌に語り始めた。彼女は楽しそうに話を聞いていたが、忙しい彼女がテーブルに戻ってきた理由をジョセフは見極め、ヨシュアの足先をふんずけて話を中断させた。
「それで面接の件、どうだった?」
 ジョセフは彼女の意図をくみ取って話を促した。
「あ、その話なんだけど、オーナーに電話をしてみたら、ぜひ会いたいそうよ。連絡先を教えてくれる?」
「……あ、俺、電話持ってないんですよね」
 ヨシュアは気恥ずかしそうな顔をした。すると彼女は微笑みながら店の名刺を差し出す。
「ここに電話すればカフェにつながるわ。あ、あと……」
 彼女は胸ポケットのペンを取り出してサラサラと何かを書いている。
「こっちは私の番号よ。もしカフェにつながらなかったら、こっちにかけてね」
 彼女は全てが当たり前と言わんばかりの優雅な笑顔を浮かべて去っていった。残された二人はしばし同じ沈黙を共有していた。

「ジョースターさん」
 やはり先に沈黙を破ったのはヨシュアだった。
「なんだ」
「お店の電話が繋がらないことってあります?」
「……さぁ、たまにはあるんじゃないか」
 ジョセフはしらばっくれた。
「ジョースターさん」
「なんだ」
「名刺に電話番号を書くのってどういう意味なんですか?」
「……それは俺個人に対する質問か?それとも一般論か?」
 その言葉に、ヨシュアはじっとジョセフを見つめた。
「どっちも」
 ヨシュアは確信犯と言わんばかりの表情を浮かべていて、心当たりがありすぎるジョセフはあっさりと観念した。

「……それは、お近づきになりたいってことだよ」

 その言葉に、ヨシュアは満足げに笑った。

 
 
 
 
 

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

 
 
 
 
 

「すっかり春ですね」

 二人はカフェを出たものの、特に目的もないまま街をぶらぶらと歩いていた。長い冬の寒さの反動なのか、暖かな空気を存分に味わいたい気持ちだったのかもしれない。
「でも3月はまだ油断できないぞ。雪が降ることだってある。4月に入れば安心さ」
「そうなんですね。4月になったらここに来て1年になります」
「そうか」
 1年目のニューヨークはどんなものだったか、ジョセフはあまり思い出せなかった。まだ戦いの余韻が残っていたかもしれない。気が付けばこの街で春を迎えるのは20回目になっていた。20回目にしてようやくシーザーを救うことができたみたいに、目の前に広がる春の気配は今までにないくらい明るかった。思わず隣を歩くヨシュアを盗み見る。しかしヨシュアとばっちり目が合ってしまった。
「あ、今ちょっとエッチなこと考えてたでしょう?」
「考えてないよ」
 ジョセフは思わず笑った。
「本当に? なんか時々エロじじいみたいな顔してるんですよね」
「エロじじいはやめなさい」
 ヨシュアは何事もなかったかのように、あの日のことを口にする。それはジョセフがずっと出来なかったことだった。ヨシュアはジョセフの心をいつも軽やかに飛び越えていく。
「あー、でもちょっとだけ、考えてたかもなァ……」
「あー!やっぱり!」
「考えるくらい別にいいだろ」
 ヨシュアの髪を乱暴にかき乱すと、彼は子どもみたいに明るい笑い声を上げた。そんなヨシュアと何度も視線が絡み合う。もっと触れ合いたいと思っている時、ヨシュアは恋焦がれるかのように長い間ジョセフを見つめる。ジョセフは思いが溢れそうになるヨシュアの顔にそっと触れた後、気持ちを抑えながら額にキスをした。

「……辛くないか?」

 その言葉に、ヨシュアは少しだけ驚いた顔をした。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……だってジョースターさんはこんな気持ちを抱えて、ずっと誰にも言わず、生きてきたんでしょう?」
 ヨシュアはジョセフのすぐ近くで見上げた。
「それと比べたら、俺なんか全然寂しくないです。俺にはこうやって、ジョースターさんがいるから。こうして二人で話すことができるから」
 ヨシュアはジョセフの手を取り、指先にそっと口付けた。
「あれ、確かこの交差点でしたよね、ジョースターさんと出会ったの」
 ヨシュアはするりとジョセフの腕から逃れ、交差点へ向かって足早に歩き出した。金髪から覗く耳の先がほんのりと赤い。ジョセフは目に映る優しい風景を静かに慈しんだ。
「そうだったかな」
 その交差点は毎日ジョセフが歩いてる場所だった。
「あの時、俺、失恋帰りだったんですよ」
「でも今日はいい出会いがあったじゃないか」
 あの時ヨシュアが失恋していなければ、この道で彼と出会うこともなかったのだろうか。
「今思うと、ジョースターさんのアレはナンパですよね。しかも2回も」
「2回?」
「1回目は交差点、2回目はカフェです」
「あれは別に、どっちもナンパではないだろ?」
「でも、赤の他人にいきなり声をかけるのはナンパですよ」
「カフェで声をかけたのは君じゃなかったか?」
「いえ、ジョースターさんです」
「そうだっけ?」
「そうですよ」
 ジョセフはわざと忘れたふりをして、交差点を渡り始める。すると、暖かな春の風が二人の間を華麗に吹き抜けた。
 ヨシュアが初めてニューヨークに下り立った季節はジョセフが夢にまで描いた季節となった。小さな青い芽が顔を出し始めた街路樹にジョセフは思わず目を細める。光が切ないくらい鮮やかに世界を照らしていて、雲の影が街を光と影に分けてゆっくりと動いている。そんな風景に見入っていると、交差点の真ん中で見慣れた金髪が振り返った。キラキラと透けるその金色の奥には涼しげなブルーの痣が浮かんでいる。
 ジョセフは思わず男の腕を掴む。 腕を掴まれた男は穏やかな顔でジョセフを見つめた。男が言葉を言う前にジョセフは愛しい人の名前を呼んだ。かつての恋人、シーザーの顔がそこにはあった。
 ジョセフが微笑むと、男も軽く微笑んで二人は再び歩き始める。

 シーザーはもういない。

 行き交う人々の喧騒とは裏腹に、ジョセフの心は静寂に包まれていた。まるで世界に抱きしめられたかのように、それは穏やかな静寂だった。

 誰かがそっと髪を撫でた気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Fin