Episode 1. Long Black

 
 
 
 
 誰だって一度は青春映画に夢を見る。幼き日の純粋な友情や、学校で出会うキラキラした女の子に。そういうものだろ?

 でもそんな美しい夢はジョセフにとって手の届かない幻想でしかなかった。あの頃はいつも何かに苛立っていたし、心や身体を常に持て余しているような感覚があった。ようは寂しくて仕方なかったのだ。それでも唯一と言っていいくらい、胸を締めつけ恋焦がれる思い出がある。イタリア・ヴェネチアの優しい海の匂い。ロンドンにはない賑やかな冬の色。そして、いつもすぐ隣で感じた熱い波紋。
 それはたった1カ月ほどの短い思い出だった。でもほら、初めて海外旅行に行った夏休みとか、初めて女の子でデートした日曜日とか、そういうのって鮮明に覚えていたりするものだろ?

「ジョジョ、そろそろ出ないと!遅刻するわよ!」
 キッチンを忙しなく動き回る妻の声が、ノイズ混じりのラジオ音声と混ざり合いながら聞こえてくる。日常に溶け込んだ朝の音は毎日のスタートを幸せに彩る。当たり前となった穏やかな毎日の中、あの時の思い出が時々顔をのぞかせる。しかしいつも以上に強く思い出されるのは、やはり先日の交差点での一件のせいだ。
「行ってらっしゃい」
「ん。行ってくる。今日はいつもより少し遅くなるけど」
「大丈夫よ。ホリィと待ってるわ」
 彼女の頬にいつものキスを贈って家を出る。この毎日のささやかな時間がいかに素晴らしいものなのか。見送る人と見送られる人がキスをして1日の幸せを願う。そして帰ることを約束し無事に帰れることを願う。忙しない日々を過ごすほどに忘れてしまうこの時間の大切さを、時おり胸に刻み直すのだった。

 平日の朝の時間は車道であれ歩道であれ、はたまた地下鉄であれ、どこだってたくさんの人で溢れかえる。どの行き方を選んでも通勤にかかる時間はそれほど変わらないため、その日のスケジュールによって移動手段を決める。今日はほとんどがオフィスワークの予定だったので地下鉄で出社することにした。たくさんのゾンビを積んだ地下鉄道に10分ほど揺られればグランドセントラルターミナルへ着く。ターミナルのコンコースを通り抜け外へ出るとようやく人混みが分散し、それぞれが巨大なビルの中へ吸い込まれるように消えて行く。行き交う都市の人々を見ていると、巣穴に向かって並ぶアリの行列だとか、グランドキャニオンに昇り沈みを繰り返す太陽だとか、自然の中にある日常を連想させる。忙しない日々に空しさを覚えると同時に、そこには何か例えようのない美しさが同居しているように感じるのはそのためだろうか。
 パークアベニューへ出てすぐの角地に、チョック・フル・オーナッツと呼ばれるのコーヒー店がある。朝のニューヨーカー達はそこでコーヒーを買うのを日課にしており、いわゆる流行りとなっていた。そのため、それに追随するように似たようなスタイルのカフェが乱立している時期でもあって、新しい店が出来ては古い店は消えていくのが日常と化していた。いちいち閉店した店を気にかける者もおらず、ただ流れてくる大きな波に身を任せる。強者が残り弱者は去っていく。これがこの街のスタンスなのだ。
 新しい日のスタートをどのコーヒーで始めるか。これはジョセフにとってかなり重要なことだった。オーナッツのコーヒーも悪くはないが今日はもう少し気の利いた味が欲しい。実はちょうどオフィスと駅の間に新しいコーヒー店ができたと噂を聞いていたので、その店に足を運んでみることにした。

店の名前は 『ニューエイジ』

 なかなか今風のキレのある名前である。最近はこの*ニューエイジのような思想が世間で流行り始めていた時期で、それもあってか店にはわりと若者やマイノリティーと思われる人たちが多く訪れていた。店内は朝の活気に包まれ、香り高いコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。カウンターでは忙しく働くバリスタたちがオーダーを受けていた。ジョセフは列に並び、待ち時間に店内を眺める。さほど広くはないが隣の席が気になるほど狭くもなく、まさに隠れ家にぴったりといった感じのサイズ感。白を貴重にしたシンプルな店内にはいくつものユーカリの鉢が並べられていて、差し込む朝日に優しく抱かれている。観葉植物の満足気なみずみずしさは、一見すると無機質に思える白の空間を居心地の良い清潔なものに作り変えているようだった。
 仕事前の一杯のコーヒーを求める労働者たち。彼らの間には自然と笑顔と挨拶が飛び交っている。ジョセフは周囲の会話や笑い声に耳を傾けながら、自分の番が来るのを待った。カウンターの前に掲示された豊富なメニューに目を通していると、バリスタが親しみやすい笑顔でジョセフに声をかける。
「お待たせしました! 今日は何にしましょうか?」
 店員は何気なく挨拶し自分の注文を待っている。ジョセフは挨拶程度にバリスタと目を合わせると「あ!」と大きな声を上げてしまい、思わず口元を覆う。なんとそのバリスタは先日交差点で出会った男だったのだ。
「どうかしましたか?」
 バリスタはいぶかしげにジョセフを見つめる。視線がしっかりと交錯した瞬間、古い記憶が走馬灯のようにフラッシュバックした。
「いや、なんでもない」
「あれ? もしかしてお客さん、この前の人違い?」
 その言葉に恥ずかしいような嬉しいような複雑な感情が湧いてくる。
「ああ、その…… 交差点では、すまなかった」
 なんとなくちゃんと目を合わせられず口ごもっていると、青年は「いいんですよ」と社交辞令的な笑顔を浮かべた。彼はカウンター脇にあるエスプレッソマシーンに気を配りながらも客としてのジョセフに紳士的だった。
「それで、注文は何になさいますか?」
 その言葉にジョセフは慌ててメニューに目を走らせる。しかしまるで頭に入ってこない。とりあえず咄嗟に思いついたロングブラックを注文した。
「ロングブラックですか? 分かりました。少しお待ち下さい。出来たらお呼びしますよ」
 青年は注文を受けるといったんカウンターの奥へ下がっていった。今度は別のバリスタがカウンターに立ち次の客の対応に入る。ジョセフは会計を済ますと客の邪魔にならないよう窓際の席へ移動した。人一倍身体が大きいジョセフは出来る限り身体を小さくして少し窮屈なハイチェアに腰かける。あまり首を長くして待つのも落ち着かないので、とくに意味もなく外を眺めて呼ばれるのを待った。

「ロングブラック、出来ましたよ」
 すぐ後ろから声がして思わず振り返る。青年は淹れたてのコーヒーをジョセフの席まで運んできたのだ。
「わざわざ、ありがとう」
「ロングブラックなんて注文するお客さんは初めてだから。もしかしてお兄さんオーストラリア人?」
「いや、イギリス人だ」
 ジョセフは微笑みながらわざとらしくイギリスのアクセントでそう答えた。
「妻が、その、イタリア人なんだ。アメリカーノって名前をあまり好まなくて。だから代わりにロングブラックを頼むことが多くてさ。どちらにせよエスプレッソを飲めれば良かったんだけど、苦いのは苦手で……」
 ジョセフは受け取ったカップをゆったり回しながら口をつける。芳醇な豆の香りと滑らかで柔らかい苦みが口内で優しく調和し、それらが舌にゆったりと浸透する。そして舌がそれを味わい切る前にほのかな酸味が追随し、通常のアメリカ―ノより確実に “ロング” で豊かな味わいが広がる。ジョセフは満足気に目を細めた。
「バリスタの俺が言うのも何だけど、ここだけの話、エスプレッソは俺も苦手。ちょっと苦すぎだと思わない?」
 彼は内緒事を伝えるかのように、唇の前に人差し指を立てて微笑んだ。その仕草にシーザーの面影を感じて軽い眩暈がした。しかしシーザーと比べ、ころころと変わる表情に今時の若者らしい煌めきを感じてどこかほっとする。カフェの穏やかな雰囲気の中、青年との他愛もない世間話が始まった。一度道端ですれ違っただけの男に青年はまるで友人かのように気さくに話しかける。もともとそういう性格なのか店の営業方針なのかは分からないが、ほんの数分の会話でジョセフの緊張と戸惑いをほぐしていった。話題のほとんどがこのパークアベニューで起きたゴシップや店のコーヒーにまつわることで、当たり障りない些細なものばかりだったが、ある瞬間、青年は興味津々な表情で尋ねた。
「あの時友人に似てると言ってましたけど、そんなに似てるんですか?」
 ジョセフはほんのりと照れながら答えた。
「すごく、似てる」
「それって会社の人?それとも学生時代の友達とか? あ、別に答えたくなかったらいいですよ。俺に似てるって結構珍しいと思って聞いてるだけですから」
 彼は自分の顔の痣をとんとんと叩きながら、若者らしい早口で問いかけた。
「……古い友人だ。もう20年くらい会ってない」
「へぇ」
 死んだ友人に似てるなんて言われたらあまり良い気はしないと思って、そこは伝えないでおいた。
「その人にも顔に痣があるんですか?同じ場所に?」
 問いかける顔がぐいっと迫り、下からジョセフを覗き込む。ジョセフは少し気後れしたが青年の顔を改めて見つめた。両側の頬、目じりの下のあたりにほんのり青い痣が浮かんでいる。朝日に照らされキラキラと揺れる金髪、鼻筋の通った端正な顔。それら全てがシーザーと瓜二つであった。ただ、瞳だけは瑠璃のように深いブルーで、そこから注がれる視線は好奇心でいっぱいだった。
「……そう、だな。痣も顔もよく似ている……」
 ジョセフはなんだか気恥ずかしくなってきて、思わず目を泳がせた。このままだと懐かしさで味付けされたたくさんの思い出や感情が溢れ出してきそうで、内心慌てふためいていた。しかし青年はまだその話に興味ありげな様子で口を開いたので
「そろそろ、行かないと」
 ジョセフは咄嗟にそう言ってさえぎった。青年はそれ以上食いつくこともなく「忙しい時間にごめんなさい」とすぐに身を引いた。
「あ、そうそう。俺、ヨシュアって言います。お兄さんは?」
「ジョセフだ」
 ジョセフはいつもの癖で胸元のポケットにある名刺入れを出した。するとヨシュアは笑いながら
「名刺なんていらないですよ。俺持ってないし。それにまた来てくれるでしょ?」
 飲み終えたカップを下げながら彼は人懐っこく視線を絡めた。ヨシュアの言う通りだ。ジョセフはきっとまたこの店に行くと予感していた。しかし心のどこかでシーザーとの思い出が重なり、もう二度と会えないかもしれないとも思った。
「ペンはあるか?」
「ペン?」
 ヨシュアは怪訝そうな顔で胸元に入れていた万年筆を渡す。ジョセフは一枚名刺を取り出すと、そこに走り書きで電話番号を書いてヨシュアに渡した。
「それでも一応渡しておきたいんだ。何かあったらこっちの番号にかけてくれ。その……こっちの番号は…… 俺個人の番号だ」
 言いながら、警戒されてしまうのではないかと思い始める。一回りも年上の男に「友人に似ている」などと言われて個人の電話番号を渡すなど、へたくそなナンパの手口みたいだ。それでもヨシュアは感じの良い笑顔を浮かべて「ありがとうございます」と受け取った。
「きっとまた来るよ。コーヒー美味しかった。お世辞ではなく、本当に」
 ジョセフがそう伝えると、ヨシュアは嬉しそうな様子で「それじゃあまた来てくださいね!絶対ですよ!」と言いながら、カウンターへ戻って行った。

 ジョセフはそのまま颯爽とオフィスへ向かった。ストリートを進む足取りはいつもより軽く、ショーウィンドウに映る自分の姿を横目に眺めたりして。つい先日五番街の一角で映画の撮影が行われていたが、遠巻きに見たハンサムな俳優が路端を歩くだけで目に映る風景があっという間に特別なものになった。今のジョセフは不思議とまるで役者にでもなったかのような気分だった。ジョセフは調子に乗って頭の中でナレーションを思い浮かべる。
 ――――なんにせよ選ぶのはヨシュアだ。彼の連絡先は聞いていない。用があれば連絡が来る。もちろん、変なナンパ師だと思われたのであれば仕方ない。しかしニューヨークという街には思いがけないところにチャンスが転がっているものだ。誰だってゾンビにはなりたくないだろう? 彼がどのような夢を追う若者かは知らないが、名刺を調べればきっとお近づきになりたいと思うはずだ。

ジョースター不動産 社長
ジョセフ・ジョースター

 まだ一般社会にこの名前は知れ渡ってはいないが、不動産界隈では期待の新星として名を馳せつつある。ちょっとした投資マガジンなんかで特集が組まれたりもしている。別にだから何というわけではないが少し調べればジョセフがどんな男かヨシュアにも分かるはずだ。例え興味がなくても、人脈作り程度には連絡をよこすに違いない。
 ――――などと、頭の中であれやこれやと考えていることにぞっとした。さっきまで意気揚々に思い浮かべていた台詞は人間臭い言い訳になっていた。肩書なんてクソくらえと思っていても、それはこの社会を生きる上でないよりかはマシだ。しかし紳士として生きることを祖母に叩き込まれたジョセフは、それを振りかざすことを何よりも嫌っていた。しかしそんなことをずらずらと頭の中に並べるくらいには、兎にも角にもヨシュアが気になって仕方なかったのだ。ただシーザーに似ていた。それだけなのに。

 オフィスに着いてからもジョセフの頭の中はいつになくぐちゃぐちゃだった。でもどこか今までにないくらい心が弾んでいるのが分かる。それは美味いロングブラックを飲んだからだ。きっとそうだ。あのコーヒーはどこの店よりも美味かった。また明日も一杯淹れてもらいたいくらいに。頭の中でごちゃごちゃ独り言を言いながら、ときどき電話の前をうろうろしてしまう。ベルが鳴る保証なんてどこにもないのに。
 何かを待っている時間は長く感じるものだ。ジョセフは何もかもを待ち望んでいた。明日の朝の訪れ、鳴り響くベルの音、そしてこの先の未来に。ジョセフはいまいち仕事に集中できないまま、いつもより “ロング” な一日を過ごすことになるのであった。

 
 
 
 
 
 
>>次の話(第二話)
 
 
*ニューエイジ…… 1960年代頃からアメリカで発展していった思想のひとつ。簡単に言えばヒッピー文化のようなもの。宇宙とのつながり、神秘性、転生思想、無意識などの世界に重きを置く。ニューエイジという言葉は1970年代以降に使用されたとされるが思想自体はこの時代から存在していた。信じる信じないは個人によるが、そのような思想の影響を少なからずヨシュアやジョセフも受けている