Episode 2. Caffè mocha

 

 ヨシュアという青年と出会ってから早くも5日ほどが経とうとしていた。実のところ、その5日間ヨシュアには会えていない。もちろん電話がかかってくることもなかった。念のため弁明しておくが、会えなかったのはあくまで仕事が忙しくてカフェに寄る時間がなかっただけである。そしてそのまま週末を迎えてしまった。だからヨシュアに嫌われたとか、避けられているとかそんなことは決してない。そもそも親切にしてもらったというだけで、毎日毎日店に通うだなんてあの店の思う壺だ。ヨシュアは客を作るために愛想を振りまいただけかもしれない。少しくらいこうやって日にちを開けた方が自然ではないか。そんなことをぶつくさ考えながら、日曜日の午後を迎えようとしていた。スージーQとホリィは買い物に出かけて留守である。いつもなら同行するのだがなんとなく今日は付き合う気にはなれず、一人で留守番を決め込んでいたのだった。
「暇だ……」
 本質的には暇ではない。やらなくてはならない仕事は山積みだ。ただオフの日まで働くようなことは絶対にしたくなかった。いつもならホリィと公園に出かけ、劇場や映画館に行って、家族がいない日は旅行先で見つけた本をじっくり読みこんだり、新連載のコミックスを楽しんだり何だかんだやることはたくさんある。しかし今日はどれも気乗りしないのだ。それなら少し外の空気を吸って気晴らしするのも悪くない。そうだ、ついでに甘い物でも食べようじゃないか。留守番を頼まれていたがホリィたちはどうせ夕食まで帰ってこない。時間までに帰ればバレっこないだろう。
 ジョセフはお気に入りのライダースジャケットを引っ張りだし、お気に入りのロガーブーツに履き替え、鏡の前で全身をチェックする。毎日堅苦しいスーツばかり着ているので、休日くらいは好きなものを着たい。そしてとびっきり甘くて身体に悪いものを食べるのも悪くないだろう。あまり食べ過ぎるとスージーQにバレてしまうから、夕飯分は腹をちゃんと空けておかなくては。いつもなら近くのキャンディーショップ・ダイナーでとっておきのコーラフロートを注文して、オーナーとくだらない世間話に花を咲かせるのだが、そういえばあのカフェ・ニューエイジにも甘いものがあった気がする。アメリカーノとスノーボールクッキーなんかも悪くない。ジョセフは何か楽しいことがひらめいた子どものようにワクワクした気持ちで、ミッドタウンへ車を走らせるのだった。

 
◆◆◆
 

 15分ほど車を走らせてパークアベニュー沿いの路端に車を止める。オフィスビルのすぐ角を曲がったところまで行くとカフェのハイカラなサインが見えてくる。カフェのテラス席にはスーツ姿の男が新聞を広げてくつろいでいた。日曜にまでスーツを着ているのはマフィアか貧乏人だなどと、そんな根も葉もないことを言っていた人間がいた気もするが今は深く考えないでおこう。
 歩行者の邪魔にならない程度にストリートに置かれたカフェ・ニューエイジと書かれたスタンド型の看板が少しハロウィン仕様に彩られている。そこには可愛らしいジャック・オー・ランタンの親子が描かれ親しみやすい雰囲気を醸し出していた。先日は開放されていたはずのドアが今日は寒いせいかぴったりと閉ざされている。ドアが閉まっているというだけなのにやけに緊張するものだ。ジョセフが恐る恐るドアを押し開くと、豆の素晴らしい香りが優しく出迎えてくれた。カウンターには女性のバリスタがひとり。そして奥に見覚えのある金髪の青年がひとり、カップの前で真剣な面持ちで仕事をしている。女性のバリスタがジョセフと目を合わせ、感じの良い笑顔浮かべながら挨拶をする。ジョセフはメニューやショーケースに並ぶスイーツを眺めながら、青年がこちらに気が付くのをそわそわと身体を揺らしながら待った。一杯のラテを完成させた青年は、女性のバリスタにそれを渡してウィンクする。なんともすけこましい表情だろう。そして女性のバリスタも満更ではないといった笑顔でそれを受け取り、テラス席へと出て行った。

「お待たせしました。注文は……あ!」
 目が会うと青年は歓声をあげた。
「わ!ジョースターさんじゃないですか!お久しぶりです!」
 その笑顔に胸の高鳴りを感じずにはいられなかったが、あくまで平静を装って上がりすぎてしまいそうな口角をきゅっと抑えた。
「久しぶりって、まだ5日かそこらだろ?」
「そうでしたっけ?毎日来てくれなきゃだめですよ」
 そんな冗談を言いながらヨシュアがカウンターから身を乗り出す。
「今日は日曜日だから暇なんです。好きなもの何でも作りますよ!」
「それじゃとびきり甘いやつがいいな」
「甘いのですか?うーん、それじゃモカとか?ホットチョコレートも美味しいですよ」
 あと甘いのだったら、ここのピーナッツバタークッキーもオススメで…と営業トークを繰り広げるヨシュアは相変わらずキラキラした表情をしている。指し示されたクッキーたちはどれも大きくてとびきり甘そうな顔をしていた。しかしヨシュアが目の前にいる以上、彼が作る一杯を飲みたいと思ってやまなかった。
「クッキーも捨てがたいが、今日はカフェモカにしようかな。温かいやつ」
「分かりました。任せてください。”とびきり” 甘いの作りますんで、ちょっと待っててくださいね」
 そう言うと、ヨシュアは真剣な面持ちでマシーンの前に立つ。慣れた手つきで着々と一杯を作り上げていく様子は見ているだけで楽しかった。マシーンから温かい湯気が立ち上り、コンコンコンとリズムよく音を立てている。店内にはコーヒーが奏でる音楽を邪魔しない程度に心地よい異国のレコードが流されており、最高に贅沢な時間だった。
 少しするとドアの向こうから先ほどの女性バリスタが戻ってくる。どうやら外の客と雑談をしていたらしい。ここの店員はわりと客と気さくにコミュニケーションを取るようだ。スーツ姿の男が窓から女性バリスタの後ろ姿を眺めている。その視線は少し楽しそうな様子を浮かべていて、この店を訪れる客はまんまと心地良い罠に引っかかっているのかもしれないと思った。

「出来ました。”とびきり” モカです。いつもよりチョコレートとクリーム多めで仕上げてみました」
 ヨシュアがモカをカウンター越しから差し出す。それは可愛らしいガラスの器に注がれ、ふわふわのホイップクリームをたっぷりと乗せていて、更にそのふわふわの上で満更でもないといった様子でチョコチップとチョコレートソースがのんびりとくつろいでいた。まるでサンデーみたいに罪深い見た目をした”とびきり”モカはジョセフの童心をくすぐった。うっかりこぼさないように気を付けながら店内をぐるりと見渡す。朝と違って店内はひっそりとしていて、西日の反射光がカウンターまで長く伸び、アールデコ調の窓枠の影が壁に幾何学模様を描いていた。ジョセフは以前と同じ窓際のハイチェアに腰かけると、そのモカを窓辺に置いて眺めた。まさに自分が欲しかったものを手に入れた時のような満足感がそこにはあった。しばし鑑賞した後、手をつけるのがもったいないその姿を名残惜しみながら、ジョセフはグラスに添えられた陶器のスプーンをふわふわにダイブさせ夢見心地の世界にお邪魔する。まずは一口。コーヒーの部分に触れずにふわふわだけ楽しむ。子どもの頃から愛してやまない幸せが口いっぱいに広がる。また一口、また一口と完全なる甘味パレードの世界を堪能していると、ヨシュアがカウンターから出てきた。
「甘さ、どうでしょうか?」
「最高だ、このふわふわ」
 アイスクリームを食べる子どもみたいにモカのクリームを楽しむ大男というのはだいぶ滑稽に見えたかもしれない。それでもジョセフはとびきりの一杯を堪能し続けた。
「そんなことより、いいのか仕事は」
「今日はもうそんなにお客さん来ないんで、大丈夫ですよ」
 君はいつもそんな調子で客とお喋りしてるのか?と聞きたくもなったが、ジョセフは罪深きモカを一口飲むついでに一緒に飲みこんでやった。クリームと絶妙に混ざり合った下層のエスプレッソ・チョコレートは “とびきり” 甘い と言われていた通り、モカにしてはかなり甘かった。しかしモカらしい深みのある苦みとふくよかさがあり、ただ甘いだけの飲み物とは違う洗練された一杯に仕上がっていた。
「うまい。俺これ好きだ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
 ヨシュアはジョセフの隣のハイチェアに当たり前のように腰を下ろしてにっこりと笑った。
「ジョースターさんの今日の服、格好いいですね!似合ってますよ」
 ヨシュアは上から下までぐるりと眺めた後、とくにジャケットを見つめながらそう言った。
「ありがとう。お気に入りなんだ」
 スーツの仕立てに関して褒められることはよくあるが、私服を他人に褒められたことはなかったので思わず顔がほころぶ。当時ライダースジャケットは若者の間で大流行りしていたが、38にもなった男がこれを着ているのはいかがなものかと思うときもあった。しかしジョセフはこのパイロットやレーサーを彷彿とさせるスタイルの服が大好きだった。
「革のジャケットなんて誰でも似合うものじゃないですよ。やっぱり体格が良くないとダサく見えるし……」
 すごいとか格好いいとか、言われれば誰でも喜ぶような褒め言葉をヨシュアは湯水のごとく言うのが得意なのかもしれない。そういえばシーザーも歯がガタガタ浮くような台詞をよく吐いていたのを思い出す。なんだかあのシーザーに褒められたみたいだ。人一倍ファッションや立ち振る舞いにうるさいあの男に。
「ヨシュアもきっと似合うと思うぞ」
「俺は無理ですよ!もちろん欲しくないと言ったら嘘になりますけど…… なかなか手が出なくて……」
 ヨシュアは少し気まずそうな様子でそう言った。確かにいくら世間で流行っているとはいえジャケットは革製品だ。まがい物なら簡単に手に入るが、きちんとした製品となるとそれなりの値段が張る。ヨシュアくらいの年代の若者が自分の金で買うとなれば大変なうえ、このライダースジャケットは大人世代からは不良が着る服というイメージがあり、親が子ども買い与えるというものでもなかった。そのためそのジャケットを着ていることが若者の間ではちょっとしたステータスになっていたりもしていた。ジョセフはそんな小話を耳にしただけで、世間で流行るうんと前からジャケットを愛好していたので、少し不思議な感覚だった。
「着てみるか?」
 ヨシュアの様子に、思わずそんな言葉がでる。
「え! いや、いいですよ……そんな……」
「別に遠慮することはないさ。欲しかったんだろ?」
 ジョセフは着ていたジャケットを脱いでヨシュアに手渡す。ヨシュアはジョセフを見つめながらはくはくと口を動かすだけで言葉が出てこない。その様子を楽しげに見つめながらジョセフは更に着るように促した。
「ヨシュアが着てるところ見てみたい」
 ヨシュアは驚きを隠せないといった様子でジャケットとジョセフの顔を交互に見た。
「……えっと、じゃ、じゃあちょっとだけ……」
 ヨシュアはエプロンを外し、ジョセフのジャケットをおずおずと羽織った。黒くてしなやかな牛革がヨシュアの身体を覆う。ジョセフの身体に合わせて仕立て上げられていたそれはヨシュアには大きかったようで、ずっぽりと身体を包みこんでしまった。その姿はジャケットを着ているというよりかは着られているといった感じでいつも以上に幼く見えたが、意外とお洒落なスタジアムジャンパーのようにも見えてきて、それはそれでなかなか似合っているとジョセフは思った。
 もしシーザーだったら、などとあまり思うべきではないが、シーザーと同じ顔をした青年が自分の服に着られているという様子は少し可笑しくて不思議な感じだった。ヨシュアの身長はシーザーとさほど変わらないくらいで、この街で見かける男性の中でも大きい方ではあったが、戦うために鍛え上げられたシーザーの身体と比べると一回りくらい小さく見えた。もしシーザーがあの戦いの後、こうして都会で暮らすことになっていたらこんな身体になっていたのだろうか。 
「ヨシュア、それなかなか似合ってるぞ」
「ほ、本当ですか!?」
 ヨシュアは嬉しそうに腕を広げたり身体をひねったりしながらジャケットの着心地を確かめている。カウンターで一部始終を見ていたバリスタの女性も珍しいものを見るような目で「似合ってるわよ」とエールを贈った。ヨシュアは女性からの言葉を貰って更に上機嫌になり、ガラスに映る己自身を眺めては嬉しそうにしている。ジョセフはそんな様子を眺めながら淹れてもらったモカをまた一口味わった。

「ジョースターさんって、身体鍛えてるんですか? 大きいですよね」
 ヨシュアはまじまじとジョセフの身体を見つめた。いつもだったら「そんなに見ないでン!」とでも悪ふざけをするところなのだが、どうにもヨシュアにはそういった冗談をまだ言う気にはなれなかった。
「特別なトレーニングはしていないが、暇があれば懸垂したり、逆立ちしたりしている」
「なんですかそれ」
 ヨシュアは面白いものを見るような目をして笑った。実際ジョセフは波紋の修行をした時の名残で空き時間に当時のトレーニングをしてしまう癖があった。逆立ちどころかカップの水を指先で止めたり、指先だけで壁にへばりついたりして仕事の疲れを癒したりしている。そんな芸当はいまや何にも役に立つことはなく、波紋を共有する者もほとんどいなくなってしまった。しかしそれはおそらく素晴らしいことだ。波紋を使わないでいられる世界。誰もが波紋を必要としない世界。それこそがシーザーが望んだ世界だとジョセフは思っていた。
 ジョセフがそんな郷愁じみた思いに耽っていると、ヨシュアが真面目な顔をして自分の身体に視線を落としていた。
「俺やっぱり、革ジャンが似合う身体になるように鍛えようかな」
 そんな呑気な理由で筋トレを始めようとするヨシュアに、ジョセフは思わず微笑んだ。
「いいんじゃないか。筋肉がついたら一緒にジャケットを買いに行こう。”とびきり” のやつだ」
 ジョセフが何気なくそう言うと、ヨシュアは目を丸くして少し困った顔をした。
「……冗談でもそんなこと言っちゃだめですよ」
 ヨシュアの顔がほんのりと赤くなっている。珍しい表情に思わず息を飲んだ。一瞬の沈黙の後、ヨシュアはジャケットを脱いでジョセフの前に差し出した。
「これ、ありがとうございました」
「あ、ああ……」
 ヨシュアはそのままカウンターへ戻って行った。取り残されたジョセフは一瞬の出来事に茫然とした。心臓がドキドキと大きな音を立てている。

 受け取ったジャケットはまだほんのり温かくて、どういうわけか “とびきり” 甘い香りがした。

 
 
 
 
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