「随分と子どもっぽいのね」
それが告白の返事だった。
「運命なんて言葉、気安く言わない方がいいわよ」
俺はその言葉を聞いてひどく恥ずかしくなった。そして彼女がどういう人間なのか知りもせず、自分の価値観を押しつけていたのだと気がついた。俺は一体何を愛して、何を好きだと思って愛だとか運命だとかを囁いていたのだろう。結果的に彼女を傷つけ、俺自身も打ちのめされ、ふたりの関係は終わりを迎えることになった。むしろ始まってすらいなかったのかもしれない。
ニューヨークに来てそろそろ半年が経とうとしていた。これまでにこの街で付き合った女性は3人。今回で4人目の女の子だった。今までは皆、運命を口にすれば幸せそうな顔をしてくれたから、いつも同じような愛の言葉を囁いた。女の子はいつだって運命を信じたい生き物だろ? でも、俺が口ずさむ運命とやらはどれも数日であっけなく消え去ってしまった。
俺の告白を紙切れにした彼女は頬の痣を優しく撫でた。その指先はまるで子どもをあやすみたいに優しかった。でもそれは一種の軽蔑だったのかもしれない。彼女は今までに出会った誰よりもリアリストで賢い女性だったのだ。でも実際、好きになった時は運命のようなものを感じていたんだ。それだけは信じて欲しい。しかしそんな言葉をかけたところで、ただの未練たらしい男にしかなれない。俺は彼女の指先を名残惜しみながらメトロポリタン美術館を後にした。予約しておいたイタリアンレストランにキャンセルの電話を入れ、このままどこかのバーで一杯飲もうかと思っていた時だ。
「シーザー!!?」
すぐ後ろで叫び声が聞こえたかと思うと、思いっきり腕を引っ張られた。そこにいたのは自分よりも身体の大きい壮年の男で、初めて見る顔だった。
「すみません、友人に、すごく似ていたもので……」
もしこのセリフが女性の口から言われたものだったなら、俺は間違いなく口説いていただろう。しかし自分より10歳は年上と思われる大男にそんな気が起こるはずもなく、軽く会釈だけして去った。
その時はそれだけだった。しかし驚くべきことにその男は俺の勤務先、カフェ・ニューエイジに現れたのだ。この時ばかりはあれだけ使うのを辞めようと思っていた “運命” の文字が頭に浮かんだのは言うまでもなく、俺の心はすっかり浮かれてしまった。言っておくが俺は別にゲイではない。だから彼に対しては1ミリも下心なんてなかった。しかしそれは恋よりもっと大きな、自分の人生にとっての “運命” なんじゃないかって大きな夢を見てしまったんだ。そして実際にその男と話してみると、どういうわけか初めて会ったとは思えないくらい親しみやすく、すぐに打ち解けて仲良くなった。もしかすると同年代の友人たちよりも気が合うかもしれない。
彼の名は、ジョセフ・ジョースター。
どうやら不動産業を営むCEOらしい。初めはなかなかの立派な肩書に驚きもしたが、彼の気さくな雰囲気やどことなく感じる育ちの良さに、この人ならこの若さでも会社を経営していけるだろうと思った。気難しいCEOが多い中、彼のような人柄に魅了される者は多いだろう。一回りも年上なのに同世代の友人のように親しみやすく、時にまるで父親のように自分を甘やかしてくる。そんな彼の傍にいるのは非常に心地よいものだった。しかし彼に惹かれた一番理由は、もっと非常に個人的な体感からくるものだった。何と言えばいいのだろう。とにかく、彼の視線からは今までに出会ったどんな人間とも違う強い思いを感じるのだ。自分の両親ですらそんな目で俺のことを見ない。付き合った彼女たちも、もちろん友人たちも。それでいて時々俺を見て少し寂しそうに笑ったりする。でもそれはシーザーという死んだ友人に向けられているものだと分かっていた。でもそれに関して特に嫌な気持ちにはならなかった。なぜなら彼は時々俺とシーザーを重ね合わせているだけで、ほとんどの時間は “ヨシュア・オドネル” として接してくれていたからだ。彼を見ていると、俺がよく口にしていた安っぽい “運命” なんかでは一括りにできないような、何か大きなものを背負って生きているんだろうと思った。
ホリデーはあっという間だった。久しぶりに親戚に会い、学業や仕事のことを両親に報告し、妹にクリスマスプレゼントを渡してディナーを食べる。久しぶりという感覚なんて束の間で1日も経てば昔と同じような家族団欒の時間が流れる。久しぶりに地元の友人とバーで飲み明かしたり、家族の買い出しに付き合ったり、そんなことをしているうちにクリスマス休暇は過ぎ去ってしまった。
ニューヨークの年始は早い。なんなら1月1日から仕事をしているくらいだ。「ニューヨーカーなら1日から働こう」などと押しつけがましくオーナーに言われたものの、さすがに1日からシフトに入る気にはなれず、押しに押されて2日から出勤することになった。その旨を家族に伝えると、もう少しゆっくりしていかないかとせがまれた。しかし今は家族と過ごす時間より、早くあの街に戻りたいという気持ちの方が強かった。故郷は自分にとって既に少し退屈なものになっていたのだ。
帰り道。バスの車窓からニューヨーク郊外の街並みを眺める。そこはマンハッタンの賑やかさと比べたら簡素なものだった。未開発の大きな森や平原に沿ってたくさんの墓が並んでいる。キャルヴァリー・セメタリーと呼ばれるその墓地は都市部からほどよく離れた丘に位置しており、マンハッタンの摩天楼が一望できる。冬の墓地は大抵寂しいものだが、今日の墓地は見違えるくらい花や装飾で彩られ鮮やかだった。おそらくクリスマスの晩に多くの家族が訪れたのだろう。モミの木のリースやポインセチアがたくさん供えられている。冷たい雪が積もっているのにも関わらず墓石たちは温く満足気に見えた。
そういえばジョースターさんはシーザーのお墓参りに行ったのだろうか。20年も経つというのに、あれだけ思ってくれる友人がいるのであれば、彼もきっと幸せだろうと思った。
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1959年1月3日。
年が明けてまだ三日しか経っていないというのに、この街はもうフル稼働している。ホリデーなんて本当にあったのかと思うくらいには日常を取り戻していた。いつも見る顔ぶれがいつものコーヒーを求めて列を作る。外は氷点下ということもあって店にやってくる客たちは皆鼻を真っ赤にして、「ああ寒い、ああ寒い」と同じ言葉を口しながらコーヒーで暖を取っていた。しかし今日もジョースターさんの姿が見えない。まだ休暇中なのだろうか。
朝のピーク時間はひたすら無心に業務をこなす。あまりの注文の多さに手を抜きたくもなるが、ギリギリのところまでこだわる。スピードとこだわり。そのバランスをとるための集中力。これが朝のコーヒーを提供するバリスタに求められる技術だ。
午前10時30分。この時間になると店はようやく静けさを取り戻す。ランチタイムからまた忙しくなるので今のうちに休憩を取ることにした。軽食を取りながら大学のレポートを進めるべく、カウンターの隅で参考書と教科書を広げる。本来ならこんなところでバイトなんかしていないで学業に集中するべきなのだろうが、仕送りだけでは立ち行かない。親から潤沢な資金をもらいながら大学に通う同級生らを見ていると羨ましくもなったが、これが今の自分の現実だと言い聞かせ、将来の自分に夢を託す。
「おはよう」
すぐ後ろから声をかけられる。うっかり集中し過ぎていたのだろうか。客が来ていたことに気がつかなかった。慌てて教科書を閉じて振り返る。
「す、すみません! 注文はこちらのカウンターで……」
「勉強中?」
「ジョースターさん!?」
後ろから覗き込む顔が「チャオ!」と異国の挨拶をしながら人懐っこい笑みを浮かべた。
「ヨシュア、久しぶり! ハッピーニューイヤー」
大型犬が飛びつくみたいに歓迎のハグをされ、いつもと変わらない様子に思わず頬が綻んだ。
「お久しぶりです! 今日はゆっくりですね。何か作りますか?」
「うーん、それじゃアメリカーノがいいかな。今日はここで友達と待ち合わせをしてるんだ」
彼は浮かれた様子のまま、教科書を一冊手に取った。
「ヨシュア、大学にも行ってるんだよね。いつもここにいるような気がしてた」
「朝はほとんど毎日働いてますので。でもお昼には大学へ行ってますよ。今日はまだ学期が始まってないので、一日働くつもりですけど」
「そっか。ヨシュアは偉いね」
彼は子どもを褒めるみたいに目を細めた。20歳近く離れているのだから仕方ないが、子ども扱いされているようで気恥ずかしくなる。
「アメリカーノです」
「ありがと」
カップを受け取ると本を広げたままカウンターに腰を下ろした。彼は意外と興味深そうに大学のテキストに目を通している。
「こんな難しいこと勉強してるの?」
「え。ま、まぁ……」
「凄いな。俺、大学は出てないから。勉強嫌いだったし」
「そうなんですか? そんな風には全然見えないです」
「ロンドンから移住してすぐ仕事を始めたから、大学に行く時間はなかったんだ。でも意外と働くことが楽しくてさ。気がついたらもう20年も経ってた」
彼はどこか遠くを見るような目をしていた。どう言葉を返そうかと少し黙っていると、ジョースターさんは俺のことをじっと見つめて微笑んだ。
「卒業、できるといいな」
ぽつりと呟く。同時にカフェの扉が開き、冷たい空気がふたりの間を吹き抜けた。ドアに取り付けられていたベルがカランと綺麗な音を立てる。
「JOJO!」
開いた扉の向こうから明朗な男の声が飛び込んでくる。そこには浅黒い肌をしたスーツ姿の壮年の男性が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「スモーキー!」
ジョースターさんは突然立ち上がり、その巨大な身体を熊みたいに大きく広げて男に熱烈なハグをした。
「久しぶりじゃん! またでかくなったんじゃないか?」
「それは君の方だろJOJO! またスーツ新しくした?」
まるで高校生同士がじゃれあうみたいに、腕を絡め髪をぐしゃぐしゃにしながらスーツ姿の大男たちが喜び合っている。一体何事かと呆気に取られていると、ジョースターさんが子犬みたいな笑顔でこちらを振り返った。
「彼はスモーキー。20年来の友達なんだ。そんで彼はヨシュア。この店のバリスタさ」
ジョースターさんが紹介するないなや、スモーキーと呼ばれる男は優雅で自信に満ちた笑顔を見せながら手を差し出した。
「こんにちわ、ヨシュア君」
「こ、こんにちわ。ヨシュアです。いつもジョースターさんにはお世話になっています」
俺もまた笑顔で手を差し伸べ、自分の名前を告げた。スモーキーは独特の魅力を持ち、その雰囲気はジョースターさん同様に他人を引きつけるものだった。
「スモーキは凄いんだぜ! 俺の財布を盗むようなコソ泥だったのに勉強して大学に行って、今はジョージア州で議員をしているんだ!来年あたり市長選に立候補するんだよな!?」
「と、とんでもない! それにJOJOやエリナさんのお陰で勉強できたんだよ」
熱烈な自己紹介を披露されて、俺はただ茫然とするしかなかった。ジョースターさんにこんなに仲の良い友人がいるとは知らなかったからだ。それに
――――JOJO……?
それは初めて聞く呼び方だった。おそらくジョセフ・ジョースターを略した愛称だろう。彼の性格からしても「JOJOって呼んでくれ」と気さくに挨拶しそうなものだが、そう言われたことはなかった。自分はもしかすると彼の友人という枠に入っていなかったのかもしれない。そう思うと、心がチクリと痛んだ。そしてスモーキーという男に間違いなく嫉妬している自分に驚いた。別に何かを競い合っているわけではないが、まるで敵う気がしない旧友の登場に胸がひしゃげるような気持ちになった。
「ヨシュアは大学に行きながら、ここで仕事もしてるんだ。それに彼が作るドリンクはどれもとびきりに美味い!」
「へぇ! じゃあ今度何か作ってもらおうかなぁ」
スモーキーと呼ばれる男がこちらを優しい表情で見つめてくる。この人は間違いなく良い人だ。抑えきれない嫉妬心を感じながらも、こんな良い人にその感情を向けたくなくて、営業的な笑顔を張り付けてスモーキとの会話を楽しんだ。彼らの口から語られるエピソードはどれも二人が昔からのかけがえのない親友であり、自分が知りえないほどの強い絆を感じさせるものばかりだった。自分はジョースターさんにとって新しく加わったばかりの知人であることを自覚し、兎にも角にも控えめな態度を崩さないように努めた。そもそもジョースターさんはただの客の一人だ。ただそれだけだ。クリスマスプレゼントだって貰ったけど、彼からしてみればごくごく普通の友人としての振舞いだったのだろう。それなのに自分はどこかで彼の特別なんだと思っていた。
――――運命なんて言葉、気安く言わない方がいいわよ
そうさ。知っているさ。俺だってもう大人だ。友人に嫉妬だなんて子どもじみたことはしたくない。俺だけが特別なんてことはないんだ。分かっている。分かっているはずなのに、唇を噛みしめずにはいられなかった。
「じゃあまたな! ヨシュア!」
「お邪魔しました、ヨシュア君」
「あ、いえ。お気を付けて……」
二人はにこやかな笑顔を浮かべてカフェを出て行った。ただそこには飲みかけのアメリカーノと、抜け殻のような静けさだけが残っていた。
▼▼▼▼▼▼▼
午後7時。
店の看板をCLOSEDへひっくり返す。働いていたパートタイムのバリスタたちも定時にあがっていたので、今店に残っているのは自分一人だった。途中に休憩を挟んだとはいえ、12時間近く店にいたことになる。
「さすがに疲れた……」
エプロンとタイを緩めながらはぁと深いため息をつく。朝の一件があったせいか、今日は一日が随分と長く感じられた。身体が鉛のように重たくて仕方がない。
昼の賑わいが消え、夜の静寂がゆっくりと忍び寄るこの時間。閉店後のカフェは日中とは異なる雰囲気に包まれていた。街灯りが窓からゆらゆらと差し込み、テーブルに残った空のカップに黒い影を落とし始める。カップを片付けながらテーブルを拭き、椅子を整え、床に散らばったナプキンを拾い歩く。カフェの中に響くのは、ふきんがテーブルの角を撫でる音や、自分の靴音、そして遠くから聞こえる車の通り過ぎる無機質な音だけだった。
ホリデーシーズンが終わったニューヨークの街は見違えるほど静かで人影もまだらだ。道路脇にはいつも雪が残っていて街路樹が霜で冷たく白んでいる。窓枠に切り取られた街並みは古い風景画のようにどことなく寂しい。そんな寂寞に身を委ねていると、それを打ち破るようにカラカラカランと忙しなくドアが開いた。
「すみません。もう閉店です」
「ヨッシュア~、ただいま~ン」
聞き覚えのある明るい声に思わず振り返ると、鼻を赤くしながらふらりと身体を揺らす大男がいた。彼の視線はぐりると店内を見渡し、俺を見つけると微笑みながらゆっくりとカウンターに近づいてくる。
「ジョースターさん!? どうして…… 」
「あれ~? もう閉まっちゃうの?」
呂律の回らない物言いで、彼はどっかりとカウンターに腰を下ろす。ツンとした酒の匂いが鼻をついた。
「もしかして酔っぱらってます?」
「え、酔ってねぇぞ」
おそらく、久しぶりに旧友と会って浮かれてしまったのか、昼から飲みまくっていたのだろう。思わずため息が出る。
「もう……。これ飲んだら帰ってくださいね」
浄水器から水を汲み、彼の前に乱暴に置いた。
「ヨシュ…… コーヒー飲みたい」
「もう閉店です」
「やだ。アメリカーノ……」
子どものように駄々をこね始める。正直、こんな姿は初めて見るかもしれない。思わず目を丸くする。だいぶ酔っているのだろうか?このまま突き返しても良かったが、この調子じゃ路上に倒れて眠ってしまうかもしれない。
「……わかりました。アメリカーノですね」
「うん」
エスプレッソマシーンの掃除は既に終わっていたが、仕方なくもう一度淹れる準備を始める。人が丸一日仕事をして疲れているというのに、昼間から酒を飲んで酔っぱらっている男を見てため息を漏らさない人間がいるだろうか。しかしため息は出ても嫌な気がしないのはなぜだろう。むしろ少し嬉しいなんて思っている自分がいる。彼の辿り着いた先が自分だと思うだけで、先ほどのもやもやした気持ちが少しだけ晴れていく。
「はい、アメリカーノです。俺、店片付けるんで、それ飲んだら帰ってくださいね」
「はーい」
彼はカップを手に取り、その香りに酔いしれるように深く息を吸い込んだ。そしてそれを一口飲むと幸せそうに顔を綻ばせた。
「やっぱり美味いな。ヨシュアのコーヒーは最高だ」
その言葉に思わず口元が緩みそうになるのを必死で堪えながら、何食わぬ顔でエスプレッソマシーンの掃除を続けた。
「なぁ、ヨシュア。ごめんな。急に来ちゃって」
コーヒーの黒い渦に視線を落としながら、彼は何かを考えているような様子だった。
「いいえ、気にしないでください。お酒が入ると、コーヒーが恋しくなることってあるじゃないですか」
彼は頷きながらほっとした様子でカップを回した。そんな彼の考えていることが気になって、今日の出来事について聞いみようかと思ったが、カフェの穏やかな静寂が質問を拒んでいるように思えて、出かかった言葉をそっと飲みこんだ。
営業時間外の誰もいない小さなカフェは、まるで箱庭みたいに、ふたりだけを世界から置いてけぼりにしたかのように静かだった。ずっとこんな時間が続けばいいのにと思った。
「ジョースターさん、お店閉めますよ」
一通りの片づけが終わったところで声をかける。返事がないのでカウンターテーブルを覗き込んで見ると、テーブルに突っ伏していた。どうやら眠ってしまったようだ。
「起きてください。お店閉めるんですけど」
仕方なく肩をゆすってみるが全然起きる気配がない。
「起きてください…………。おいジョジョ、起きろ」
いたずらのつもりで声を荒げてみる。実際その愛称を口にしてみると照れくさかった。昔ながらの友人ならきっとこんな風に声をかけるんじゃないかと想像しながら親しげに話しかけてみる。
「おい、ジョージョ、いつまで寝てる。置いてくぞ」
「……ん、ぅ……」
瞼が気だるげに持ちあがる。眠たげな表情はちょっと可愛いかもしれない。瞼の向こうに覗く湖のような深い青。それは熟れた果実のごとく柔らかく濡れていた。
「ジョジョ?」
思わず息を飲む。赤く火照った唇に青く濡れた瞳。それはあまりにも蕩けた表情だった。酒のせいだろうか。
「……シーザー?」
その名にドキリと胸が跳ねる。
「シーザー、なのか?」
ジョジョの指先がまっすぐ自分に伸びてくる。その指先はそっと頬に触れ、優しく輪郭を撫でた。一気に顔が熱くなる。すると今度は、その指先が頬からするりと滑り下り、唇の形を確かめるようにゆっくりと撫でた。まるで愛撫でもするかのような優しい触れ方に思わず身体がピクリと跳ね、脈打つ鼓動ががドキドキと騒ぎ出す。
「シー、ザー……」
丸い目尻がきゅっと細められる。その瞳の奥に熱く湿った欲望がパチパチと弾けるのが見えた。
――――ゾクリとする。
俺は思わず後ずさった。触れるものを失った指先は撃たれた鳥のようにパタリとカウンターに落ちた。
一瞬の出来事に茫然とする。ハッともう一度彼を見ると、始めから開いていなかった扉のように瞼は何事もなく閉ざされていた。全ての出来事がなかったことのように、ジョジョと呼ばれるその男は穏やかに寝息を立てている。
取り残された俺は全身が焼けるように熱かった。二人の間で飲みかけのアメリカーノがぐるぐると渦を巻いている。
何か滲むような甘い気持ちが、じんわりと湧いてくるのを感じずにはいられなかった。