俺の名前はシーザー・アントニオ・コッポラ。イタリア人なのに洗礼名がついている、だいぶ面倒くさい名前だ。こんな名前になった経緯を話すと、それは非常にくだらなすぎて眠くなってしまいそうだから省くことにする。俺はこのシーザーという名前をそれなりに気に入っていて、大体20年くらいはこれ以外の名を名乗ることはなかった。親からもらった名前以外を使おうなんて考えもしないことだった。
しかし俺には、ジョンとイーサンという別名がある。ジョンという男はとある界隈ではちょっと名の通った名前だ。決して良い通り名ではなかったが。
なぜそんな名前を使うようになったのかというと、それはおそらく10年ほど前、俺が大学生だった頃まで話はさかのぼる。俺はニューヨークに夢を見て、イタリアから渡米した留学生だった。イタリアからアメリカへ留学する人間はそう多くはない。人気の留学先はドイツやイギリス、オーストリアで、アメリカなんかに留学するイタリア人は少数派だった。実際渡米してすぐにイタリアへ帰りたいと思ったほどだ。ニューヨークには多くのイタリア系移民が住んでいたけど、どういうわけかイタリア人には死ぬほど冷たい。見知らぬ人しかいない土地で、俺は死に物狂いで生きていくしかなかった。
大学も3年になった頃、企業のインターンシップを始めた。しかしどこの企業もあまり欧州からの留学生を受け入れようとしなかった。現地のアメリカ人やより優秀なアジア人が好まれ、中途半端な能力の俺はいつもお荷物だった。「辛いならイタリアへ帰ればいい。あんな良い国が母国なのが羨ましい」そんな声すら聞こえるくらいだった。
そんな頃だった。あの男、イーサンに出会ったのは。彼は優秀なファイナンシャルプランナーだった。その界隈で彼の名を知らぬ者はいない。企業インターンの社交の場で、俺は偶然彼に声をかけられた。彼は伸び代のある若い学生や起業家に声をかけ、投資のコツや未来設計について様々なことを教えているらしかった。俺はあの有名なイーサンの近くで仕事を学べるならとすぐにインターンを始めた。彼の周りには既に何人もの学生が働いており、活気に満ちた雰囲気だった。
イーサンの話すことはいつも希望に満ちていた。リアルな世界を見据えながら語る彼のビジョンは夢にあふれているように思えた。自分が手に入れた富を社会に再分配し、経済格差や心の貧しさを解消することを本気で考えていた。しかし今思えば俺は彼に少し心酔気味だったのかもしれない。俺は数いるインターンの中でも特別だと、イーサンに何度も褒められた。君には才能がある、そして美しい。君はもっと上を目指すべきだと。俺はそれを丸ごと信じてしまったのだ。なにせ彼はその言葉の通り、それに見合うだけの機会を俺に与えてくれた。他のインターンにはやらせない特別な仕事をいくつも貰い、通常の仕事以外の社交場にもよく連れて行ってもらった。そこで富裕層との付き合い方、紳士としての嗜みを学んだ。テーブルマナー、みだしなみ、酒の飲み方、そしてヤクの取り扱い。ここで学んだものはどれも最上級のもので、おかげ様でどのような場へ顔を出しても恥をかくようなことはなかった。彼が示すことは、絶対に間違いないと思い込むことができた。
そんな時だった。彼とセックスをしたのは。
俺はゲイではなかった、はずだ。それでもイーサンの要求だから断れなかった。思い返してみるとイーサンはやたら俺の腰に手を回し、男同士にしては不必要なスキンシップの多い男ではあった。麻薬を吸った夜なんかは翌朝、衣服が脱がされていて、本当ならこの時点で俺は彼を疑うべきだったんだ。それでも俺はイーサンから離れることができなかった。俺は結局彼の要求を飲んだ。それが全ての終わりであり始まりでもあった。
イーサンとのセックスは最悪だった。死ぬほど葉っぱを吸い、意識なんかとうの昔にどこかへ置いてきてしまったかのように、随分と遠かった。戻ってきた頃には全裸で大股を開き、イーサンが獣のように腰を振っていた。全身が彼の唾液でベタベタで、精液と混ざって嫌な匂いがした。彼の性行がどれくらいの時間続いていたのか俺には分からない。一度や二度ではないと想像できるくらいには全身が気怠かった。意識の戻った俺を見るなり、渇ききった口で唇を奪ってきた。俺はあまりの気持ち悪さに吐き気を覚えたが、イーサンはうっとりとした顔で俺の中に射精した。
これで終われば良かった。しかしイーサンの悪行は続いた。大学の卒業を迎える頃、俺はろくな就職先を見つけられないでいた。イーサンが良い就職先を斡旋していると言った言葉を丸ごと信じていた自分のせいだった。イーサンにその気などなかったのだ。彼はハッキリ言った。「就職先が見つからないなら、俺の下で “働け” 」と。
一緒に働いていたインターンたちは、適当な紹介先をもらって皆卒業して行った。自分だけはそれが与えられることはなかった。イーサンは初めからその気などなかったのだ。俺は彼に頼り尽くしていた自分の愚かさを思い知る。俺はイーサンにアメリカでの就労資格を与えて貰う代わりに、セックスの相手をする。そんな関係が続くことになった。
イーサンはいつから、こんなことを考えていたのだろう。あの時語りあった夢は、間違いなくキラキラと輝いて見えた。彼が導く未来は若者たちを魅了していた。彼の社交の場での振る舞いは美しく、誰よりも紳士に見えた。そして彼は己の仕事で財を成し、富を分配し、邁進している、間違いなく素晴らしい人間に見えた。
一体どこからが嘘なのだろうか。彼が世間に取り上げられるたびに、彼の活動や言動はどれも素晴らしく見えるのに、俺の上で腰を振る男は、ただの汚らしい獣にしか見えなかった。
どうして自分だけ。なぜ自分だけ。
あの時一緒に働いたインターン達は、順調に出世している。なぜ俺だけが。なぜ俺なんだ。
俺が馬鹿だったから? 俺に能力がなかったから? 俺がイタリア人だから?
「なぜ俺なんですか」
「別に、なんとなく」
「……なんとなく」
「世界なんて大体のことは “運” なんだよ、シーザー」
「そんな、こと……」
「まぁ強いて言えば、顔かな。顔が良かった」
目の前が真っ暗になった。
こんな醜い街にいつまでもいる必要はない。もうイタリアへ帰ろう。そう思い、故郷のジェノバにいる母へ連絡をした。しかし母は俺が大学を無事に卒業し、アメリカで就職先を見つけたこと、異国の地で自立していることを大変喜んでいた。その嬉しそうな声を聞いたら、今更何をどう説明すればいいのか分からなかった。「俺は男に抱かれることでアメリカにいます。それが辛いのでイタリアへ帰りたいです」なんて言えなかった。結局俺は適当な話をして電話を切ってしまった。家族のためにも、もう少し頑張ろう。その時はそう思った。
こんな話を聞かされて君はどんな感想を持ったのだろうか? おそらく、自業自得だと思う人が大半だろう。そうだ。大体ほとんどのことは自分の無知と弱さのせいで起きたことだ。
イーサンとの関係が続くにつれ、自分の性衝動にも変化が現れ始めた。恋人と付き合うと、発作に襲われるようになったのだ。相手を愛おしいと思えば思うほど、吐き気がして息が詰まり、汗が止まらなかった。相手がなぜ俺を愛するのか分からなくて、イーサンのように裏切られることを想像してしまう。そしてセックスの場面になるとまるで勃起しないのだ。俺は自然と女性との付き合いをやめ、男性と付き合うようになった。幸い、俺を抱くことが出来きる素敵な男性に出会うこともできたが、俺の発作は治らなかった。
その代わりに、手頃な相手を見つけてその場限りのセックスをする事はできた。おかしな話に聞こえるだろう? でも恐ろしいくらい興奮するんだ。お綺麗に取り繕った男を獣のように犯している時、この上ない怒りと興奮に満たされた。相手は紳士であればあるほど興奮する。綺麗な身ぐるみ、嗜み、教養なんかの虚飾を全部剥がし取れば、ただの飢えた獣にすぎない。むしろ丸裸で欲望をぶつけ合うことが本来の人間の姿とさえ思えた。
この頃にジョンというもう一人の自分が誕生した。母から貰ったシーザーという美しい名前を汚したくなくて、適当な名前を名乗っては男を抱き潰すようになった。俺の性狂いする姿に素敵な恋人は怒り、俺を乱暴に抱いた。その時はじめて彼に勃起した。彼はそんな気の狂った俺に耐えきれず、泣くようにして去って行った。もう柔らかい恋などできやしない。
ジョンとなった俺はヘルズ・キッチンのバーに入り浸り、手頃な男を抱いた。不思議なことにこのニューヨークには抱かれたい男が数多くいた。そしてイーサンの言った通り、俺の顔に男達は安易に惹かれてくれた。まさに引く手数多。相手に困ることはなかった。俺はどうやら ”煙草を吸いながら獣のように抱いてくれる美しい男” という評価を貰い、 “紫煙のジョン” なんてダサい通り名をつけられているらしかった。どうでもよかった。
しかしヘルズ・キッチンの男たちは貧乏くさい男が多く、俺はより紳士的な相手を求めて高級クラブのバーテンダーの仕事を始めた。LGBTQフレンドリーな店とあって、様々なセクシュアリティーや境遇の人間が酒を飲みに来る。
当初は身なりの良い紳士を引っ掛けては寝ていたが、意外にも男性客より女性客が多くつくようになっていった。今となっては女性を性的に見ることが出来ず、紳士の化けの皮を剥がすことだけに興奮していたので、彼女たちとはむしろ自然体で関わることが出来た。女性と恋愛していた日々は、随分と遠い昔のことに思えた。
彼女たちの話は不思議と退屈しなかった。女性たちの口から語られる世界はおとぎ話のようだったけど、自分の知り得ない世界の一部だったからだ。彼女たちにとって男とはどのようなもので、恋や愛がどのような色をしていて、なぜ一人の男のために涙を流すのか。全てが美しいポエムのように聞こえた。
そんな日々を過ごすうちに、少しずつイーサンの存在が小さくなっていくような気もした。しかし彼は定期的に俺を呼び出しては、気が済むまで好き勝手に抱いた。己の権力を誇示しながら俺の身体に屈辱を叩き込み続けた。
俺は己の醜い人生をスマートフォンの前で語り尽くした。この滑稽な人生を世の中に発信したら、誰かが救ってくれるんじゃないかという淡い期待があったからだ。
しかし俺はそれを公開できないでいる。自分でそれを見返してみると、全ては自分の不甲斐なさのせいに思えて仕方なかったからだ。俺はいくらでも抜け出せる機会を作れたかもしれないのに、自分の弱さでこの状況に甘んじている。そう思えてきて涙がこぼれた。
巷ではミートゥー運動が盛んになっていた。今ならイーサンに報復できるかもしれない。そう思った。しかし声を上げるのは女性ばかり。男性の、ましてや白人なんて見当たらない。搾取する側のレッテルを貼られた白人男性が同じ白人男性に搾取される話など、誰が聞き入れるだろうか。俺は自分の無力さに唇を噛んだ。
それでも何か少しでも抵抗がしたくて、イーサンのアカウントを作った。それはほとんど思いつきだった。自分のスマートフォンに入っていたイーサンのオフショットをアップし、彼のプロフィールを書いた。俺はイーサンになりすまそうとしたのだ。
そして適当に流れてくる男達を眺めていると、ふと一人の男が目に留まった。それはどことなくイーサンに似た男だった。名前はジョセフ・ジョーンズと書かれていた。しかし似ているのは顔だけで、写真に映る彼はイーサンよりずっと健全で幸せそうに見えた。こんな普通な男と、普通に出会っていたら。イーサンともし普通の友人になれていたら。俺の頭の中はありもしない夢でぐちゃぐちゃになった。家族や友人と親しく過ごすイーサンに似た男を見ていると、ただどこか懐かしく、羨ましく、涙が止まらなかった。
俺はどうしてもジョセフに会いたくて、彼にLikeをした。イーサンのアカウントだけど構わなかった。適当な嘘は慣れっこだ。
実際に会って見るとイーサンよりずっと素敵ないい男だった。黙っていればまさに奥ゆかしく精悍な紳士そのもの。男らしくやや釣り上がった太い眉、色の良いセクシーな唇、思わず見惚れてしまうくらい澄んだブルーの瞳。パーツひとつひとつは華やかなのに、適度なサイズと適切な位置に収まることで気品を感じさせることに成功している、そんな顔だった。しかし彼はあまり自分の見た目や振る舞いに関心がないようで、大抵頼りなさげに眉毛をハの字にしたり、子どもみたいに唇を尖らせたりしている。そしてなんと言っても、相手に対する好意が顔中から溢れ出てしまっていた。思わずこっちが恥ずかしくなるくらいはっきりと「好きです」と顔に書いてあるんだから仕方ない。ジョセフは今まで会ってきた男たちと比べて、随分と雰囲気の違うやつだった。そして不思議と、ジョセフに対してはあの性衝動が沸き起こらなかった。彼には剥がすような化けの皮がなかったのかもしれない。俺をセントラルパークに誘った時、彼は驚くほどありのままだった。その姿は何よりも純粋で美しいと思った。ジョセフと一緒なら何かを変えられるかもしれない。なぜだかそんな風に思えて、一歩を踏み出すことに決めたんだ。
しかしジョセフを思うほど、俺はあの発作に襲われた。それは以前の彼氏とは比べ物にならないほど強い発作だった。ジョセフと愛し合い、その後もし彼が俺を欺いたとしたら。もし彼の愛情が全て嘘だったなら。そう思うと俺は息が苦しくてたまらなかった。彼はイーサンとは違う。そう思ってもなかなか思い切る事が出来ない。彼と抱き合うことを想像すると手が震えて仕方ない。結局俺は酒やマリファナを手放すことが出来なかった。
彼に会えば会うほど、心から愛おしいと思うようになった。彼は明るい太陽の下がよく似合う。ひまわりみたいに。俺はジョセフとランチをしたり公園に行ったりするだけで幸せだった。もし許されるなら彼と一緒にいたい。人生が運という名の偶然であるなら、俺はジョセフとの出会いを運命として喜びたい。そう思った。しかし俺が甘い幻想を思い描くほど、あの仄暗い性衝動が沸き起こってくる。ジョセフとの逢瀬を重ねるにつれ、俺の遊び相手は増えて行った。そして相手と別れるたびにジョセフが恋しくなる。もうどうしようもなかった。
ダイナーで彼と目が会った時、いっそ憎んで欲しいと思った。俺があんたを本気で好きになってしまう前に憎んでくれれば、俺も甘い幻想を抱かないで済む。そんな中途半端で自分勝手な考えで過ごしていたから、いよいよ罰が下った。ついにバーでジョセフに捕まったのだ。
彼の本気の怒りを目の当たりにした時、俺はもう終わりにしようと思った。ジョセフをこれ以上傷つけたくない。やはり彼は初めからこちらに来るべきではなかった。摩天楼での忠告を俺はちゃんと貫き通すべきだった。
でもお前なら、この地獄から連れ戻してくれるんじゃないかと思ってしまったんだ。でもそれじゃ駄目なんだ。俺がしっかりしなくては。もう誰かに頼っていちゃ駄目なんだ。
ジョセフは凌辱的に俺を抱こうとしたが、無理をしているようにも見えた。彼にそんなセックスは似合わない。ジョセフに抱かれながら、彼の怒りと悲しみを感じた。それは俺が今まで抱いてきた男に向けてきた衝動と同じ色をしていた。彼にこんな気持ちを抱かせてしまったことを心から悔やんだ。
俺はもうどこへも帰れない。誰も愛してはいけない。そろそろこのセックスを終わらせなくては。そしてこのまま海の見える場所にでも行って、一人で静かに暮らしたい。でもジェノバの海は俺を迎え入れてくれるだろうか。こんなに汚く、醜くなってしまった俺を。
そんなことを考えていると、ジョセフが俺を力強く抱き締めた。絶対に逃さないと言わんばかりに。そこには怒りも悲しみもなく、ただひたすら愛おしさにあふれていた。
「やめてくれ」
俺を愛さないでくれ。逃れたいのに彼はその背丈を活かして俺の自由を奪った。抱き上げられ、つま先が床から離れる。身体が宙に浮いた不安定な体勢に耐えきれず、俺は思わず子どもみたいにジョセフの身体にしがみついた。ジョセフはそんな俺を優しく抱きしめて何度も何度もキスを求めた。拒んでも拒んでも彼は諦めようとしなかった。
「シーザー、シーザー」
恋い焦がれるジョセフの懇願に押し負け、俺はいよいよキスに答えた。意外にもあの発作は起きなかった。もうどうせ会うことはないと分かっているからかもしれない。そう、これで俺たちはおしまい。
「シーザー、好き。好きなんだ、だから……」
そんなこと、ずっと前から知っていたさ。でもあんたにそう言われると、こんなにも嬉しいものなんだな。
なぁジョセフ、なんでお前はそんなに俺のことが好きなんだ? まぁ俺も死ぬほどあんたのことが好きみたいだけど。なんでだろうな。
翌朝俺は、彼が目覚める前に立ち去った。
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